北東アジアのバベルの塔

 昔々、津田左右吉という「国粋主義的」な学者がいました。彼は、日本文化に対する中国文化の影響力を当時の常識と比較して過小に評価し、認めざるを得なかった僅かな影響については今後徐々に廃棄していこうと提案したそうです。
 しかしながら彼を排斥した「国際主義者」達は、「同文同種」だの「日支連帯」だのと叫んで大陸を目指し、大きな戦を始めました。
 やがて混乱が収まると、かつて「日支」二国を構成していた地域はより細かく分断されて、各地はそれぞれ別々の文字を使う様になってしまいましたとさ。
 幼い頃、「日本兵は中国でこんな事をしました。」といった類の話を聞かされた。やがて物事を疑える年齢になると、そうした話に登場する荒唐無稽な部分に気付き、変な証言を疑ってかかる人の著作を好んで読んだ。しかし更に成長すると、仮に零から嘘を作ったのなら政府や党の指導もあってもう少し巧いものに仕上がっているはずではないか、とも思える様になった。
 そんな頃、日中戦争に関する次の様な話を幾つか見聞きした。鶏卵を現地調達しに行った日本兵が「卵」という字と「下さい。」という身振りとを交えて意思疎通を試みた所、「人間の睾丸を提出せよ!」という無体な要求と誤解されたという話や、「ここはもうすぐ戦場になるから、さっさと逃げろ。」と伝えたいつもりで「走」という字を書いた所、現地の人には「歩け、歩け!」という意味にしか見えなかったという話である。これはこれで本当にあった証拠はないが、似た様な悲劇があったであろう事は常識で想像がつく。
 上で紹介した様な事例において、「我々はこんな無茶苦茶な事をされそうになったよ。」も「我々がそんな無茶苦茶な事を敢えてする筈がないだろう。」も、それぞれ主観的には真実の証言であるだけに厄介である。
 現在、台湾では昔ながらの漢字が使用され、中華人民共和国では簡体字が使用され、日本では独自の略字が採用され、朝鮮半島では漢字がほぼ消滅している。これは非常に不便であるのだが、上述した様な思考の結果、少しは利益もあると思い始めた。
 何となく通じたつもりになれる程度の不完全な共通語があると、人はついそれに頼ってしまう。やがてその不完全な部分が原因で誤解が起こり、無益な争いに発展してしまう。それならいっそ原則として通じ合えない状況に置かれている方が良いだろう。苦労して意思疎通の技術を習得すれば、誤解の少ない交流が待っている。