私が多大な影響を受けた本(1)――呉智英著『読書家の新技術』(朝日新聞社・1987)

読書家の新技術 (朝日文庫)

読書家の新技術 (朝日文庫)

 私はこの本の著者である呉智英から、思想的影響はほとんど受けなかった。なにしろ彼は、大日本帝国も現代の日本国も否定して江戸幕府の再興を目論む封建主義者である。おそらく私だけでなく彼の愛読者のほとんどが、その最終目的には賛同していないと思われる。
 彼は思想的に孤独であるから、他者を批判する場合、「X氏はA主義者だから許せない!」と言っても、誰の賛同も得られない。これがためか、相手の論法を逆手にとって相手を追い込むという、ソクラテスにも似た論争技術を展開している。だから彼が他者を批判した文章は、大概はほぼあらゆる思想・信条の人から首肯される様な内容に仕上がっているのである。
 前近代の賞賛者という最も偏頗な立ち位置に居る人間が、近代的な言論の自由市場において最も公平な文章を書くというのも皮肉な話である。
 具体例を紹介する。
 90〜92ページでは、1982年8月12日の朝日新聞が批判されている。まず天声人語の、日本軍の中国に対する行為は「進出」ではなく「侵略」だという、歴史教科書問題関連の主張が紹介される。
 この問題に関して、そもそも「進出」に修正しろという圧力自体が無かったとして朝日新聞を攻撃する保守派の論客もいるが、こうした批判の手法を採れるのは余程強力な取材力を背景にしている人だけであろう。
 対して著者は、同じ日の朝日新聞の別の記事から「中国の侵攻を受けたベトナム」だの「カンボジア出兵」だのといった記述を発見してきて紹介するのである。
 これなら私の様な一般市民でも真似出来るし、取材源の守秘義務を楯にした言い逃れどころか、「一日経って考え方も変わった。」等の言い逃れも全く通用しない。そして最大の効能は、朝日新聞と思想的に近い位置にある人にすら支持されるという事である。
 数日前の私の田母神論文批判(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20081107/1226009194)は、この本で学んだ技術を活用したものである。
 「田母神は右派だ!」等と書いても、元々田母神氏の思想的立場を嫌悪していた人には今更何の影響も与えられないだろうし、保守派を自任する人の多くに「田母神を守れ!」という決意を新たにさせてしまうだけだろう。革新・中道向けの文章を書く事が生活の糧である等の特殊な場合を除いて、かなり無意味な行為である。
 「規則違反だ!」だの「主催者と元々仲が良かった!」だのと書くのはそれなりに意味があるだろうが、これは一番槍を狙うには取材力等が必要となってくる。またこれだけでは、「論文の内容自体は正しい。」と言う人への影響に乏しい。
 だから、文章力等の価値中立的な問題点を探したり矛盾点を発見する事に努めたのである。満洲国を植民地扱いしたり満洲帝国の皇帝への敬称に「殿下」を使用したりするといった態度は、大日本帝国大義を称揚する立場にある人々にとってこそ、許し難いものであろう。本物の反戦主義者にとって中国のベトナム侵略やベトナムカンボジア侵略の擁護が許せないのと同じである。こうした点を指摘してこそ、批判対象の支持者を切り崩せる。
 私が歓迎したい事態は、「偏った」立場の衰退ではない。立場の平均値からの遠さで言えば、呉智英の思想は田母神俊雄のそれの数倍であろう。そうした立場で書かれた書籍からすら、実際にこうして私は多くのものを得る事が出来た。
 私の夢は、「劣った」立場の衰退である。三流保守・三流革新、そして何より三流の中道が衰退してこそ、一国の知的レベルが向上したとして誇れるのではなかろうか?
 その理想への一歩として、呉智英から学んだ批判技術を今後も活用していきたいと思っている。当然鉾先として呉智英を除外しないつもりである。
「子莫執中 執中為近之 執中無權 猶執一也 所惡執一者 為其賊道也 舉一而廢百也」(『孟子』盡心章句上篇より)