『忘却の旋律』全話視聴計画(第6〜8話)

第6話 鼠講谷
 世界中の子供達の涙を集めて作られた「鼠講谷」に、道に迷ったボッカ・小夜子は辿り着く。涙を集めてくるのは、「働きマウス」と呼ばれる鼠型の小さな機械達である。
 涙を溜めているダムには穴が開いているのだが、一人の少年らしき何かが、オランダのハンス少年伝説よろしくそこに腕を突っ込んで決壊を防いでいる。
 しかし村人達は彼を「鬼」であるとして忌み嫌っている。鬼である理由は、昔は角が生えていたから。
 実は彼の正体は機械である事が、第8話で判明する。そしてこれと対比されるのが、集められた涙の集計事務所で黙々と機械の様に計算を続ける人々である。「人の様な機械」と「機械の様な人」、果たして本当に人間らしいのはどちらなのか、という問いが発せられている。
 芸術家「彦山絵市」は、谷の支配者にしてモンスターユニオンのエージェントである「ミリオネアびーばー」こと「金谷みり」に依頼され、ダムに絵を描いている。
 絵市は知り合ったボッカ達をみりに紹介する。みりの執事はボッカを税にする事を進言するが、それまで絵市に惚れていたみりはボッカに一目惚れし、絵市の方を税にしてボッカは色気で骨抜きにするという計画を思いつく。
 みりはロボット怪獣「ヂウ」で絵市を攫おうとするが、ボッカに撃退される。このヂウは無数の働きマウスが合体して出来上がったものである。
 その後、ボッカは数で押してくる働きマウスの集団に苦戦するが、突如現れた「遠音」が「鳴弦」の技で働きマウス達を一気に撃退し、彼を助ける。
 遠音はメロスの戦士風なのだが、アイバーマシンを持たず、アイバーマシンに乗るメロスの戦士の事も嫌っている。
第7話 鳴弦
 前回絵市を取り逃がしたため、みりはモンスターの使いである「アルコトナイコトインコ」に皮肉を言われる。ここでトラウマを刺激されたため、聞き苦しい大きな叫び声を挙げる。
 遠音がかつて絵市の許婚であった事が判明する。だがやがて遠音は例の鬼呼ばわりされている少年に心を奪われてしまったらしい。
 かつてこの少年は遠音達の村の近くの山に逃げ込み、山狩りの対象となった。賞金目当てのみりと、少年に水と食料を与えたい遠音は、一緒に山に入り、そこでモンスターである赤い髪の少女を見る。この時を境に、みりはモンスターユニオンのエージェントとなり、遠音はメロスの戦士になったのである。
 メロスの戦士とモンスターユニオンのエージェントが表裏一体の存在である事は第5話で少しだけ匂わされていたが、ここでは露骨にそれが表明されている。
 よって前述の人に不快感を与えるみりの叫び声が、モンスターとその手下に不快感を与える遠音の鳴弦との対比で描かれたものである事は、ほぼ確実である。
 鼠講谷が世界中の子供達の涙の量を集めて集計している理由も明らかになる。一定量の涙を納めた大人はモンスターユニオンのエージェントになれるらしい。今まで出てきたエージェントは皆その才能を見込まれて一気に成り上がった感があったが、功績によって徐々に昇進していくルートもある事が判明した。
 終盤でみりは再出撃をするのだが、ヂウに乗るためのエレベーターや倉庫には、やたらと魚のデザインのオブジェが多い。その理由については遂に見抜けなかった。諸賢からの教示をお待ち申し上げる次第である。
第8話 すでに択ばれた遠い道
 絵市を襲ったみりは、またもやボッカに撃退される。絵市は無傷でこの谷から去ってしまう。
 このためアルコトナイコトインコを通じてモンスターはメロスの戦士を殺す事をみりに厳命する。みりも三度目はより多くの働きマウスをヂウに融合させて本気で攻めてくる。三度目が本気というのは、第5話のけい子にも見られた現象である。
 鬼の少年の正体がアイバーマシンのユニコーンシリーズの「モノケロス十一号」である事が判明する。遠音は美しい彼が時としてアイバーマシンに変形するという事に耐えられず、変形に必要な角を外してペンダントとして持ち歩いていたのだ。これをオーディオコメンタリーは「精神的な阿部定事件」としている。
 しかし遠音は成長し、美の永遠性とは観念の中にあるものであって物理的な半永久性の中にはないと気付く。そして角を彼に返し、「スカイブルー」という名前とそれに付随するアイデンティティを与え、彼との支配関係を始める。
 ちょうど同じ頃、ボッカは忘却の旋律の助けにより、「セレナーデ」というメロスネームを自分に与えていた。他者に名前を与える事が支配関係の始まるであるのと同じく、自己に二つ名とセルフアイデンティティを与える事は自己立脚の開始である。この時からボッカも鳴弦の技を使えるようになり、ヂウを簡単に倒してしまう。
 ボッカはまだ小夜子をほとんど意識していないが、「セレナーデ(小夜曲)」と名乗ったという事は、潜在的には既に小夜子を伴侶と見做しているのであろう。
 スカイブルーが手をダムから抜いた事により、ダムの決壊が始まる。そして絵市が描いていた絵も水に流される。その直後、一瞬だけメロスの戦士を応援する別の絵が出現する。ここでも、芸術の永遠性が物理的半永久性ではないという主張が現れていると言えよう。
 芸術の永遠性をめぐる話は、この後も遠音に関連して再登場する。
 スカイブルーについてオーディオコメンタリーでは、脚本家の榎戸洋司氏は「僕の定義だと、言葉が喋れるものは人間なんですよ。」と言っている。つまり「人の様な機械」であるスカイブルーの方が「機械の様な人間」である集計事務所の物言わぬ労働者よりも人間らしいという立場であり、これは一般にパーソン論と呼ばれる倫理思想に近い。これに対し、参加者の一人が「スカイブルーとかって絶対とかしなさそうですけどね。」と、冗談めかしつつもかなり奥深い反論を行っている。
 パーソン論をめぐる話も、これまた遠音に関連してやがて再登場する。