『忘却の旋律』全話視聴計画(第1・2話)

 『忘却の旋律』はGAINAX20周年記念作品であり、個人的にかなりの名作だと思うのだが、やや知名度が低い。今回からしばらく、本作を紹介する記事を書いて行こうと思う。
第1話 メロスの戦士
 冒頭、二十世紀に人間とモンスターの全面戦争があり、モンスターが勝利し、人々はその事を忘れていった、という設定が語られる。
 この二十世紀戦争の解釈については、第二次世界大戦の暗喩だとする言説もあり、全共闘運動であるという言説もあるのだが、私は強者に立ち向かい敗れた全ての戦いの象徴であると考えている。これについては徐々に語っていく予定である。
 作品の舞台はモンスターが人類を支配している世界なのだが、その支配は非常に間接的である。主人公「芹名ボッカ」のガールフレンドである「園田エル」は、このためにモンスターの存在自体を疑っている。
 しかしボッカは五年前に友人の「ケイ」が突然行方不明になった事から、モンスターの実情を探り続けている。ボッカのバイト先の機械屋「ツナギ爺さん」もケイがモンスターの犠牲になったのだろうと言う。
 ケイは遠足の日にバスが出発する直前に腕時計を紛失し、それを取りに教室へ行ったままバスに戻って来なかったのである。そして急な熱で休む事になったと教師は説明したのだが、翌日からもずっと姿を見せなかったのである。
 実はケイはモンスターに納める税として、市長室の隣の秘密の部屋に保存されていた事が、後の場面で判明する。謎の容器に入れられたケイは成長もせず、ずっとバスを待っている。
 「バスに乗り遅れる」という表現は、時流に取り残されるという事を意味する。時計の紛失は成長の停止を、即ち死を表現している。バスに乗り遅れた少年が社会の犠牲になり死んでいくのが、この世界なのである。
 因みに、ケイが消えたバスには「上北澤中学校」と書かれていた。その五年後のこの話では、ボッカは進級を賭けた追試を控えている。よっておそらくこの遠足は中学一年の一学期の行事であり、現在のボッカは高校二年の三学期なのであろう。
 この「上北澤」という学校名には注意が必要である。現実世界の「上北沢」なら世田谷区にあるので、「市長」の支配を受けない。これはやはり、完全に架空の地なのであろう。因みにオーディオコメンタリーによると、ボッカが通っている高校のモデルは三鷹市の某学校である可能性が高いとの事。
 学校からの帰り道、ボッカは謎の少女「月之森小夜子」に食事を奢る事をせがまれる。そして一緒に食事をして、メロスの戦士「黒船」の情報を少しだけ得る。
 丁度その頃、市長室を牛のモンスター「ホル」が訪ね、生贄のケイを食べてしまう。
 ここでは「食べる」という行為が対比されている。これについても様々な解釈が可能であろう。取り敢えず、ボッカが食事を通じて外部から来たマレビトと仲が良くなり、市長が食人の共犯になった事だけは、押さえておきたい。
 夜、ツナギ爺さんの所へボッカが行くと、そこには黒船もいる。そこへホルが奇襲をかけてくる。
 本気を出したホルを見ると、普通の人間は人形になってしまう。だからツナギ爺さんは即座に目を瞑り、ボッカにもそうする様に勧めるのだが、ボッカはモンスターを見据える。そして人形にならなかった事で、彼もまたメロスの戦士である事が判明する。
 怪物の様な社会の矛盾に「目を瞑って」いる限り、人は普通の人として生きていける。社会の矛盾を目に見るのは、その犠牲者と、それに立ち向かう社会運動家だけである。その社会運動家こそ、作品中でメロスの戦士として描かれる存在である。
 ツナギ爺さんは、メロスの戦士のためのバイク「アイバーマシン」を作ったり修理したりする事で、戦いに貢献してきた。勇気を持って一度モンスターを見据えていれば、即死するか自分がメロスの戦士であると自覚するかの分岐が待っていたのだろうが、彼はそこまでの勇気が無かった内の一人なのであろう。
 黒船はホルに「お前は迷宮の中に閉じ込められていたんじゃなかったのか!」と聞く。ホルは「知らなかったのか?ここは全て迷宮なのさ。」と答え、「今日こそお前の糸を断ち切ってやる。」とも宣言する。
 牛のモンスターが迷宮に閉じ込められていて、それに立ち向かう勇者の道具が糸というのは、確実にギリシア神話ミノタウロス伝説が意識されている。
 ホルの予想外だった事に、アイバーマシンが既に直っていたので、形勢は直ぐに黒船に有利となり、ホルは一方的に追われる側となる。こうしてツナギの様な直接戦わない者も重要だと判る。
第2話 長い放課後の始まり
 警視庁のパトカーが数台でツナギの小屋を襲う。ここで舞台である謎の「市」が東京都にある事が判明する。
 ツナギは逃げ去るが、メロスの戦士にだけ見える幻の少女が本当に居る場所を見つければ人類はまだ負けないという情報をボッカに伝えていた。
 翌日、ホルは辛うじて黒船から逃げ切るが、このために腹が減ってしまい、市長に更なる「税」の供出を命じる。その対象こそ、市長の一人娘である園田エルであった。
 市長は税は四年に一度の約束の筈だと少しだけ反論するが、やがて表向きは沈黙を余儀無くされる。
 オーディオコメンタリーによると、脚本が書かれたのは実際の放映の三年程前との事である。しかし偶然にもこの話が放映された頃、狂牛病問題をめぐる日米間の交渉が白熱していた。現実世界の日本人は、かつて戦争で自分達を征服した連中から「牛を食え」と迫られていた。そして『忘却の旋律』世界の市長は、かつて戦争で自分達を征服した連中から「牛に食われろ」と迫られていたのである。
 「食う」と「食われる」では、確かに逆である。しかし、そもそも「食べる」という行為は対象との一体化なのであるから、「食う」と「食われる」は、ある意味では同じなのである。
 僅かな犠牲者を強者に供出する事で平和を買うのは、確かに最大多数の最大幸福という原理から見れば、非常に現実的である。多くの人はそれを黙認したり支持したりする。そして「それで本当に良いのか?」という疑問を抱いた一部の社会運動家だけが、その機構に立ち向かうのである。
 そしてこの日も、ちょうどその頃、小夜子はボッカから食事を奢られていた。前回に引き続き、対比であるのはほぼ確実であろう。
 市長は表向きはホルに従いつつ、黒船に助けを求める。普段は社会適合者として右翼とか左翼とかを馬鹿にして時には弾圧に手を貸したりしている者が、いざ自分の親族が米兵に殺されたり北朝鮮に拉致されたりすると急に彼等に連帯を求めるというのは、よくある話である。
 この市長の態度は、確かに醜い。だが良く良く話の流れを再確認すると、そもそもホルが異常なまでに空腹になったのは、彼をしつこく追い回した挙句に取り逃がした黒船のせいでもあると言える。ここに社会問題の複雑さが描かれているのだろう。
 黒船とボッカの活躍により、エルは救われる。ホルはニューフェイスを登場させてしまった事を悔やみつつ去る。
 黒船も、メロスの戦士とは選ばれる者ではなく選ぶ者であるという事をボッカに告げて去る。
 ボッカは、並んでいるエルと小夜子の内から小夜子を選び、アイバーマシンの傍らに乗せ、去る。社会人への進路を捨て、戦士としての道を選んだのである。