悪僧の涙

 昔、ある寺に大変強い僧兵がいました。今日は皆さんに、その人の話をしたいと思います。しかしながら彼の名は正確には伝わっていないので、ここでは「A」と呼ぼうと思います。
 Aは強いだけでなく残酷でもありました。少なくとも人類社会ではそう認識されていました。ただ、倒した敵の僧兵の死骸をバラバラにして野山の動物達に分け与えた事跡については、現代では再評価の気運が高まっています。
 Aある所に血の匂いあり。人呼んで「戦場を駆ける大暗黒夜叉」。この通り名があまりにも有名になりすぎた事が、Aの本名が現代に伝わらなかった原因の一つと主張する姓名判断の専門家もいます。
 ある日、Aは敵の寺に乗り込んでいつもの様に床を殊更に血塗れにしました。これは実は、敵の援軍が来た時にそれを怯ませるという周到な目的のためだったのですが、幸か不幸か同時代には理解されませんでした。もしも理解されていたら、もう少し友人がいたでしょうが、どんなに残虐で強靭なふりをしても体力の尽きた頃を見計らわれて、包囲殲滅されていたと思われます。
 これで誰もしばらくは自分に近寄ろうともしないだろうと見込んでAが休憩していると、突如如何にも弱弱しい老僧がそこに入ってきました。
「沙門の身でありながらなんたる事をした奴ぢゃ。斯様な振る舞いは、仮に仏が許しても拙僧が許さん。まして仏が許したという絶対的な証拠がないから尚更の事である。地獄に送るだけでは飽きたらぬ。じわじわと嬲り殺しにしてやる。」
「御老体、無理はするものではない。」
「今の貴様の体力が、拙僧には手に取る様に判るぞ。拙僧が用意した捨て駒達との戦いぶりをずっと見ていたんぢゃからな。貴様の悪業に終止符を打ってくれん。」
「終止符なんて符号は現代にはないぞ!察するに、未来から歴史を変えるために送り込まれてきたエージェントだな。」
「何を訳の判らん事を言っておる。よしんばそうであったとしても時空管理局職員服務規程第三条により否定するわい。それはさておき、これでも喰らえ!」
 老僧の拳が突き出されました。Aは痛くも痒くもありませんでした。そこでAは余裕の笑みでも浮かべ様かと企図したのですが、次の瞬間、異変に気付きました。床に血を撒き過ぎていたため、床と足の裏との間でのせいしまさつけいすうが低下していたのです。Aの体は非力な老僧によって加えられた僅かな力で横転してしまいました。そして頭をしたたかに打ち、意識が朦朧としてしまいました。涙も流れました。
「どうぢゃ!局地戦での小競り合いしか経験してこなかった貴様には戦場の真の恐ろしさが判ってなかったという訳ぢゃ。貴様の新しいあだ名を拙僧が考えてやる。『ゆとり残虐』ぢゃ。やあい、やあい、ゆとり!」
 その直後、老僧が偶然にも落雷で死んだので、Aは九死に一生を得ました。ただ、この時に頭を打ったせいで、四則計算の速度が以前より2%程低下してしまいました。
「出家の分際でせっしょうかいを破っていた結果がこれだ。因果の理の霊妙さに今ようやく気付いた。」
 Aは深く反省しました。そして還俗しました。そのため、その後何度も似た様な横転を起こしましたが、頭髪の緩衝のお陰で一度も気絶しなかったそうです。