辛淑玉著『悪あがきのすすめ』(岩波書店・2007)

悪あがきのすすめ (岩波新書)

悪あがきのすすめ (岩波新書)

評価 知識1 論理1 品性1 文章力2 独創性1 個人的共感1
 4ページ、今時の風潮を物語る文脈で、「反戦ビラを配っただけで逮捕され、「サヨク」扱い。」とある。配った「だけ」で逮捕出来るのなら、立川反戦ビラ配布事件の被告人は何故たった三人「だけ」だったのか?反戦ビラの配布者が次々に逮捕され、しかもそのほぼ全員が次々に不起訴になっているという話は、寡聞にして聞かない。
 同ページ、「民族名を使う在日朝鮮人や(略)、みんなひっくるめて「反日」。」ともある。一部にそういう風潮があるのかもしれないが、現在は通名及び通名報道への批判の方が高まっているのではあるまいか?
 16ページ、「ときには、「朝鮮人は朝鮮に帰れ!」と怒鳴られることもある。」とある。事実なら、確かに酷い発言である。ところが著者は、「そんなときは、「わかりました。じゃ、天皇連れて帰ります」と言う」らしい。金正日氏ですら拉致を少なくとも表向きは禁止したこの時代では、化石の様なテロリズムである。
 拉致の対象に天皇を選んだ理由も奇妙である。17ページ、「だって、せっかく百済の末裔だと今の天皇がカミングアウトしたのだから、仲間外れにしちゃかわいそうじゃないか。」だそうである。桓武天皇の母親が百済帰化人の血も引いているだけで、著者にとっては今上天皇も仲間の朝鮮人なのだろうか?仮にそうであるとして、何故今上天皇の同父母弟の常陸宮正仁親王は「仲間外れ」にしたのか?
 その後、他人事の様に「だいたい、どこからどこまでが朝鮮人なのだろうか?日本国籍を取得したら日本人になるの?ダブルの子はどうなるの?国籍と民族は一緒なの?そうまじめに問い詰めると、たいがいは辟易した顔をする。」だのと書いているのだが、まずは自分に対してこそ問い詰めるべきであったと思われる。現状では一般人の共感を得られないどころか、世界中のテロリストからも主として知能程度を理由に「仲間外れ」にされるであろう。
 19ページでは延々と怪しげな「民俗学的」な説が語られる。「ある学者さん」から聞いたものらしく、「その説が妥当かどうかは、私にはよくわからない。」との事である。「ある学者さん」の正体については、本名どころかその専攻すら不明である。こういう場合は、著者が説に関して全責任を負うなり、もう少し軽く触れるなりするのが、常識人の態度であろう。
 因みに51ページにも、「ある人権団体の報告によれば」という記述が登場する。一方93ページでは、「古関彰一さん」と実名を挙げてから説を引用しており、古関氏の職業についても「学者」ではなく「憲法学者」として紹介されている。
 してみると、「ある学者さん」や「ある人権団体」の実名を出さなかったのは、無知蒙昧の故ではない可能性も出てくる。実名を紹介した場合の説の信憑性の増減の程度を周到に計算したのかもしれない。
 22ページでは、転校早々「十中八九、ボス」と見定めた子の所に行き、「いきなり上履きでパコーンと一発、頭をはた」いたという小学生時代の武勇談が、何の反省も無いどころか寧ろ自慢げに語られる。こういうのは一般に日本語では「悪あがき」とは言わない。ただの「悪がき」である。
 因みに動機はというと、過去に別の学校で苛められたから、今度は苛められないためとの事である。ボスだと勝手に著者に決め付けられて苛められた子こそ被害者である。前述の4ページの表現を借りるなら、「転校生から見て挙動が偉そうだったというだけで上履きで殴られ、「ボス」扱い。」されたのである。
 大量破壊兵器があるかもしれないという疑いからイラク戦争を起こしたアメリカ大統領ですら、一応は開戦前に交渉の真似事程度はしていた。これと比較対照すれば、著者の思考回路が如何に危険なものであるかが解るであろう。この種の主観においてのみ予防的である先制攻撃を正当化したいのであれば、自分が受けた苛めについても恨み言を言うべきではない。その「苛め」も、加害者の主観においては防衛だったのかもしれないのだから。
 24ページ、著者が受けた苛めの例として、「メザシが魚か、朝鮮人が人間か。」と言われたという話が紹介される。これは「メザシの材料は生物学的には確かに魚であろうが、これを他の高級な魚を用いた料理と一緒くたに魚料理という定義の範疇に入れる事は、社会通念上は屁理屈とすら言える。『朝鮮人』という概念と『人間』という概念の関係もこれに酷似している。」というとんでもない主張を諺の形式で表現したものと思われ、許すべからざる差別的な発言である。これに対して著者は、「「へぇー、メザシが生きた魚に見えるのかぁ、お前らバッカジャン」と言い返していた。」との事である。反撃になっていないどころか、件の差別者の中には自身の見解の正当性を被差別者にも承認されたとして満足した者もいたかもしれないと思うのは、果たして私だけだろうか?
 最後に一つだけ擁護しておくと、著者自身以外の「悪あがき」をしている個人や集団を紹介する中盤以降の記述は、序盤と比較して相当理性的であった。これに似た傾向は、前著『怒りの方法』にも見られた。ゴーストライターなりそれに限りなく近い校閲者の助力を得た部分とそうではない部分との差異なのか、それとも著者は自分について語り始めると途端に理性を失う人物であるためなのか、あるいは他の理由があるのかは不明であるが、ともかく部分的に読んだだけで購入の是非の予定を決めてしまっていた人には、それぞれに再考を奨めたい。