辛淑玉著『怒らない人』(角川書店・2007)

怒らない人 (角川oneテーマ21)

怒らない人 (角川oneテーマ21)

評価 知識1 論理1 品性1 文章力1 独創性1 個人的共感1
 11ページ、「「日本人」(厳密に言うと、日本社会で暮らす人びと。だって、マイノリティの中には、在日外国人や日本民族以外の少数民族出身の人々がふくまれるから)」とある。全然厳密ではない。著者の言う「日本人」が、日本国籍を持つ者という意味ならば少数民族出身者にも日本人は数多いし、ヤマト民族に属する者という意味ならば在日外国人の中にもそういう人はいるだろう。
 この記述がある意味で本書を集約している。「日本人」という単語の定義を三流保守よろしく曖昧に使用し、あまつさえ書き下ろしのはずの一冊の著作の中でその場その場の状況に応じて自己に有利な定義を選んで採用するのである。そして26ページに「ヤマト民族」という表現がある以上、著者が語彙の貧弱さのせいでこうした状況に陥って混乱してしまっているという訳ではないのは確かである。
 本書の国籍・民族に関する身勝手な詭弁を延々と検証していくとそれだけで一冊の本が仕上がってしまいかねないので、敢えてこの問題に関連するこれ以上の批判は省くが、以下に指摘する種々の問題点等はこの壮大な問題と比較すればどれも小さなものであるという事を明言しておきたい。
 26ページ、「とくに私にボロクソにやられ、プライドを剥ぎ取られた男たちの憤懣やるかたない声が嫌がらせとなって押し寄せてきていることもよく理解している。その数は、日々日本の記録を更新しているから、これも面白い。」とある。「著者の攻撃に遭った男性の嫌がらせ」の数ならば、日々更新される事は有り得るが、「日本の記録」とやらの意味が不明である。上記の嫌がらせの定義から「著者の」を含む一部の条件を除去すれば、その数が日本の記録を日々更新する事は決して不可能な話ではないが、少なくとも現段階においては日本中のそうした事件の数を公平に採取して記録している機関は存在しないだろうし、またそんな面白い記録所がもし仮に実在するのなら、同種の被害に遭っている人を救うためにもこの機会に紹介すべきであったと思われる。
 28ページ、肉体も幼かった日の著者が、転校の際に教室「の中で一番強そうなガキ、つまり教室を暴力で支配している少年」に「上履きで強烈な一撃」を加える話が自慢げに語られる。そしてここで「つまり」と平然と書ける人物が、167ページでは「疑いがあれば他国に軍事介入してもいいとは、なんともお粗末な答弁だった。」と偉そうに語っているのは、何とも御粗末な話である。
 29ページでは、こうした自分の悪事を「弱者対強者」の図式に一旦普遍化し、しかもその直後で再びその具体例に戻る形でダビデゴリアテに勝利した話を出している。こうした下手な印象操作に一時的に騙される子供もいるかもしれない。しかし彼等もやがて大人になれば、ゴリアテとは単に一番強そうに見えただけの兵士ではなく、大声で一騎打ちを所望していた兵士であった事を知るであろう。
 32ページから始まる自民党批判によると、自民党は少数派への分断工作をしているらしい。しかし少数派の分断の例として出てくるのは、仮にそうした意図的な工作があったとしてもそもそもが自民党の結党以前の話である等、自民党と関係の薄そうな問題が多い。
 44ページ、「かつて、景気対策として商品券(のちに地域振興券)なる金券を世間にばらまいたことがあった。」とあるが、これではばらまいた後に名称が変わったかの様な印象を受ける。
 同ページ、「友人のマクロ経済学者に訊ねたところでは、」と、実在するのかどうかすら怪しい人物の説が語られる。しかも自分が代わりに説の責任を取るでもなく、「わたしは経済学者じゃないから、その評価についてうんぬんする気はない。」と言い放っている。
 本書には他にも、「アメリカの学者(169ページ)」程度にしか紹介されていない人物の発言が大量に引用(?)されている。それでいて173ページでは、「日本政治分析の第一人者でもあるチャルマーズ・ジョンソン」と発言者の名が明記されている。ただしここでも「かつて日本のテレビのインタビューで」と出典をしっかりぼかしてはいる。
 58ページ、「府中刑務所に収監されていた徳田球一共産党書記長がGHQによって解放されたとき、」とある。徳田球一が書記長になるのは出獄後である。
 62ページ、日本共産党を「生活感のないこの党の歴代党首は軒並み東大出の男が占領している。」と評している。日大出の徳田球一慶應出の野坂参三逓信官吏練習所出の村上弘が党の顔として華やかに活躍している背後に黒幕として軒並み東大出の歴代党首が君臨していたとは、本書を読むまで知らなかった。
 それにしても、自称フェミニストでありながら、日本共産党の最高幹部の人事について、性別の偏りよりも学歴の方に目が行ってしまうとは、実に情けない。
 76ページ、「今回の都知事選で石原氏に投票した有権者は、石原氏の差別発言によって、自身の内面の差別感情に火をつけられてしまった人びとだと言える。」らしい。著者の脳内で、差別感情に火がついていなくても石原候補が相対的に一番ましだと思った有権者が一体誰に投票した事になっているのか、非常に興味深い。因みに著者自身には「支援する理由は、石原氏よりもマシだから、という消去法でしかなかった。(85ページ)」という論法の使用が許されている。
 77ページ、石原慎太郎を評して「彼の口喧嘩がナチスのマニュアルとみごとに一致していることが分かるだろう。」とある。「ナチスのマニュアル」とは、76ページでは「ナチスによるプロパガンダの特徴」と表記されていたものを指していると思われる。著者はこの六つの特徴(マニュアル?)に石原慎太郎の言動を無理に当て嵌めているのだが、皮肉な事に特徴(マニュアル?)の第六は「具体的な敵を一つに絞り中傷を繰り返す。」となっている。石原慎太郎が中傷の相手を一つに絞っているとは、随分狂信的な石原擁護である。
 94ページでは松岡利勝の自殺に関連して、「石原都知事は「死んで詫びるとは、彼も侍だった」と持ち上げて語ったが、彼が「帰化人」と侮蔑しながら叩いた故新井将敬氏が利益供与事件で自殺したときには、そのような言葉は吐かなかった。」と書いている。しかし新井将敬の場合は国民へのお詫びの遺書が発見された訳ではないので、勝手に自殺の動機を決めつけるのも問題である。
 97ページ、「南京大虐殺はでっちあげ」という発言に、著者は「中国に行って直接言ってみてください。できるものなら。」と返している。日本国憲法第21条の効力が及ばない地域に敵を誘い出し、他人の剣を利用してそのペンを折ろうとは、中々の策士である。なお70ページでは、石原慎太郎東国原英夫のブログに対して「オレの前で言ってみろ!」と声を荒げたとされている。
 103ページでは「放火はどちらかというと女性の犯罪」という発言に噛み付いている。ちなみに著者は163ページで、「DVは、世界共通の男の犯罪である。」と語っている。どちらかというと「どちらかというと」という文言を付けている側に軍配が上がる。
 以上により、結果的に本書は「マイノリティで、しかも知能が異様に低い人でも、ちゃんと生存可能であるどころか大手出版社から本を出せる程、日本は平等で寛容な社会なんですよ。」というアピールをしてしまっていると言える。著者がこうした本を書き続ける事は、長い目で見れば反差別運動にとってマイナスであろう。自分が目立つよりも、能力があるのにマイノリティであるという理由だけで苦しめられている人へのインタビューを丹念に行って発表していく方が、効果的なのではなかろうか?
 なお余談だが、本書の記述から推測される著者の知能程度から判断するに、著者が他人を「ボロクソにや」ったり「プライドを剥ぎ取」ったりする際、言論の力を用いた可能性は低そうである。ひょっとして肉体だけは大人になった今でも、「上履きで強烈な一撃」を加え続けているのであろうか?