石原慎太郎と表現規制とオリンピック

東京オリンピックの社会経済史

東京オリンピックの社会経済史

 とある縁により、老川慶喜編『東京オリンピックの社会経済史』(日本経済評論社・2009)を手にした。大矢悠三子執筆の第8章「湘南海岸をかけめぐった東京五輪――「太陽の季節」から「若大将」へ」が中々興味深い内容であったので、紹介したい。
 石原慎太郎が小説『太陽の季節』を発表した直後は、「太陽族」は「有閑階級の不良少年」という意味であったらしい。しかし石原慎太郎原作の所謂「太陽族映画」が公開され始めた後には、映画の可視的イメージだけを真似た連中が氾濫し、「太陽族」は「愚連隊」とほぼ同義になったようである。そして舞台である湘南の治安が極度に悪化した事が、227ページのデータで示されている。
 当然ながら「太陽族映画」に対する世間の批判は凄まじかったようで、例えば『狂った果実』を観に行っただけで校長から退学勧告された女子高生も複数名いたらしい。神奈川県は「神奈川県青少年保護育成条例」に拠って、映画業者に太陽族映画の自粛勧告や観覧禁止措置を行ったらしい。その後も各地で上映を規制する条例が作られ、政府レベルでも法律的措置が議論されたとの事である。
 小説こそ直接規制されなかったものの、太陽族映画の製作は中止に追い込まれたので、規制運動は石原慎太郎の収入にとって直接・間接に打撃となった事になる。こういう扱いを受けた時、「表現を規制する権力はいつの日にか潰してやる!」と思うクリエーターもいれば、「ふむ、表現もまた規制されるものなのか。これは勉強になった。」と思うクリエーターもいるだろう。昨今の言動を見るに、石原慎太郎はどちらかといえば後者に近かったものと思われる。
 こういう経緯があった以上、表現規制問題で石原慎太郎個人を説得する事は相当難しそうである。本人の小説の内容を典拠に表現規制問題に関連して都知事を批判する文章をネット上でしばしば見かけるが、その大半は少なくとも都知事の心を動かす役には立たないだろうと思われる。「明日は我が身だぞ。」と脅しても、「昨日も我が身だった。」と返されて終わりである。
 話を前掲書第8章戻す。挙国一致的な太陽族映画の規制と、警視庁の手まで借りて行った徹底的な取締りによって、湘南の治安は回復したらしい。こうした強烈に若者の風俗を気にする世間の風潮の背景には、オリンピック招致運動がからんでいたというのが、大矢の分析である。
 その分析が正しいとするならば、石原慎太郎東京オリンピックとは、その頃から奇しき縁で結ばれていた事になる。
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