劇場版『うる星やつら』メモ

オンリー・ユー

 11年前の影踏みを根拠に、遠い星からエルが諸星あたるに結婚を強引に迫りに来る。
 この「影踏み」が、かつて行われたあたるとラムの「鬼ごっこ」を意識した設定である事は、ほぼ確実である。そして"LUM"の頭文字の読みは「エル」である。
 外部世界から突如侵入してきた非常識人に恋人を奪われるという、かつての三宅しのぶの立場に、ラムは置かれた事になる。
 この時点でラムは、「(友引町の)内部」的存在である事が確定した事になる。これが実は、後の映画の設定に大きく影響していくのである。
 幼年時において行われた不正規な結婚契約の無効化は、一種の「成長」である。
 愚かな行為をした幼年期の自分をあたるは痛めつけている。この時のラムの台詞を表面的に聞き流すと、これは「自分を責める」という表現を不正確に現実化したギャグシーンに思えてしまう。しかし実際にはこれは、「成長」の特徴である過去の自分を否定を、極めて正確に象徴的に反映した場面なのである。
 事件を経て、エルは、凛として厳しい決断を下せる独裁者に成長した。
 一方あたるは、更なる成長である正式な手続きを踏んだ結婚というイニシエーションを経験する直前まで行くが、結局は合法的な浮気が出来る身分でいたいという欲望を抑えきれなかった。
 
ビューティフル・ドリーマー
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 この作品については、既に多くの考察が存在している。その多くは本作を単独の作品として解釈しているが、私は劇場版シリーズ全体の中で本作を解釈したい。
 主要メンバーが老いもせず永久にサザエ時空の中で楽しく暮らしていれば良いというラムのささやかな夢が「夢邪鬼」によって具現化した世界から、この話は始まる。
 夢は次第にエスカレートし、主要メンバーだけの世界となり、やがてその主要メンバーも次々に粛清されていく。
 幼年期の姿のラムの姿がしばしば登場する事や、夢邪鬼が支援していたのがラムである事から、ラムが夢の世界の暴走の元凶とされる事が多い。
 しかし本当に「目が覚めるのが厭」だったのは、大切な人の名前を一つに絞るのを最後まで渋っていたあたるではないかというのが、第一作を踏まえた上での私の解釈である。
 ラストにおいて、ラムは、夢邪鬼が作り出した世界を、漠然と覚えているだけであり、単なる夢であると認識していた。
 これに対しあたるは、夢邪鬼の世界を意識的に終了させ、終了後にラム以上にその世界の事を知悉していたのである。
 あたるはラムの分身に対し、「好きな人を好きでいるために、その人から自由でいたい」と言っている。この発言は『オンリー・ユー』のラストシーンの解説でもある。彼は、結婚という硬性の関係ではなく、恋愛という軟性の関係を半永久的に維持したいと、夢見ているのだろう。
 ラムの名を叫んで「現実世界」に戻ってきた精神体状態のあたるが、寝ている自分に対し「人の苦労も知らんとこの餓鬼ャ!起きんかボケ!」と叫んで蹴飛ばしているのは、『オンリー・ユー』であたるが11年前の愚かな自分を責めていたのとパラレルの関係にある。昨日の自分を否定する事が成長なのだから。
 とはいえ、その成長・進歩も、結局は直ぐに消えてしまうのだが・・・。
 なお、夢邪鬼があたるへの精神攻撃として創った世界の一つは、鬼ごっこであたるがラムに敗北した世界であった。これは、本作以上に作品世界のサザエ時空の解決に貢献したテレビ版『うる星やつら』第130話「異次元空間 ダーリンはどこだっちゃ!?」に、ほぼ直接的に受け継がれるアイディアである(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20110501/1304259835)。
 
リメンバー・マイ・ラヴ
 ラムが異世界に閉じ込められてしまう話である。
 ラムが友引町から消えると、テン・ラン・お雪・弁天も友引町に滞在・来訪する動機が無くなり、その姿を消してしまう。
 しかも面堂終太郎はタコと意思疎通出来なくなり、面倒家の妖怪桜はただの桜となり、シリーズの途中からいつの間にか付け加えられた「しのぶは怪力」という設定も消滅してしまう。
 そしてなんと、サザエ時空が消失し、あたる達は三年生に進級してしまうのである。しのぶが日記を書き始めたのは、時間が真っ当に進み始めた事の象徴である。
 これは、やがてラーラが明かした通り、「ラムがいたから周囲が不条理ギャグ漫画の世界になっていたに過ぎない」という事を意味しており、数々の不条理な設定を一気に「条理」の世界に閉じ込めてしまうものである。
 時系列上の矛盾のみを解決した『ビューティフル・ドリーマー』や、進化の袋小路に行き着いた分岐の消滅を解決した130話以上に、根源的かつ徹底的にフィクション世界の夢を削ぎ落としている。
 この解釈のヒントとなるのが、友引メルヘンランドの初日と二日目の光景の差異である。物語世界に日常的な形で同化しているかに見えたメルヘンチックな様々な生き物達も、異世界との扉が開いているからという理由で存在しているに過ぎず、扉が閉じてしまえば消えてしまうのである。
 今回の敵であるルウは、童心至上主義者である。ラムに幼児の時期の笑顔を取り戻させる事を目的として行動している。夢邪鬼は成長を否定しただけだが、ルウは更に「退行」を目指すという、より不自然な存在である。それを象徴してか、実際に本人の姿も映画の途中で若返り、声優まで変わってしまう。
 ルウの力で発生したと思われる、幼き日のメガネ・パーマ・カクガリ・チビ達が、高校生の本人達に攻撃を加える場面は、『オンリー・ユー』においてあたるが幼児のあたるを攻撃した場面が意識されていると思われる。初日の友引メルヘンランドを制御している者が、成長を憎むのみならず退行を賛美している事を、暗示しているのである。
 ラムが帰ってきたラストでは、教室には半魚人やカラス天狗が戻ってきている。その中には、かなり目立つ形で夢邪鬼もいる。普段の『うる星やつら』の世界が復活した事が、かなり直接的に表明されている。
 
ラム・ザ・フォーエバ
 友引町が意思を持って、異分子であるラムを排除しようとする話である。
 排除の動機は『リメンバー・マイ・ラヴ』を観賞しておくと理解しやすい。即ち、前作で偶然達成されかけた「ラムを筆頭とする異分子のいない普通の町への回帰」を、今度は意識的に行おうとしているのである。
 これとパラレルな構造になっているのが、劇中に登場する「鬼姫伝説」である。鬼姫伝説の表向きの内容は、村人に取り付いていた多くの悪霊を鬼姫が一気に滅ぼし、村人は盛大な御礼の祭をするというものである。しかし実際には、鬼姫を殺す事で悪霊を滅ぼしたという内容であった事が、地底湖に眠る鬼姫の屍骸から暗示されている。
 ラムが主役の映画の撮影という「マツリ」は、実は鬼姫=ラムを、友引町に跋扈する魑魅魍魎ごと排除する端緒であったのである。映画に登場する村人は伝統を理由に狸の格好をしているのだが、彼等は正に、マレビトを生贄にしておきながらそれを美談へと変える、「タヌキ」なのである。
 力を失ったラムは日記を書き始めるが、これは前作においてサザエ時空の消滅を象徴したしのぶの日記を、確実に意識している。
 ラム消滅時の大会議の場面には、『めぞん一刻』の音無響子五代裕作の姿が見える。私は初見時にはこれを、単にサービスとしてのカメオ出演として理解していたが、実際にはおそらく、「ラム達異分子が友引町から消えた事で、劇中の世界観が、『うる星やつら』流の非現実的なものから『めぞん一刻』流の現実的なものへと、急速な近付いている」事を伝えているのであろう。
 全体的に繰り返されるテーマは、破壊による再生を通じた成長である。
 面堂家は、「太郎桜」が成長し過ぎて洞が大きくなったので、切り倒して接木をして新しく生まれ変わらせる予定であった。
 ラムは、力を失い、角を失い、姿すら失うが、最後に帰ってくる。鬼族が成長の節目に力と角とを失うという設定は、テレビ版第54話「わいのツノを返してくれ!」にある。
 そして友引町もまた、戦争による大破壊を経て再生するのである。
 幼児姿の主要登場人物を使った成長の比喩は、今作でも健在であった。幼児達は自発的に消滅(=成長)していったのである。
 公開当時、テレビシリーズの終了が間近に迫っていた。ラムが弱体化して人々の記憶から消えそうになるという劇中の設定は、『うる星やつら』は放映終了後に世間から忘れられかねないという危機意識と連動していたのであろう。
 
完結篇
劇場版うる星やつら 完結篇 ハイビジョン・ニューマスター [DVD]

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 原作の最終巻をほぼ忠実になぞった作品である。
 故に本来ならば前四作とは全く違った内容・作風になる筈であり、また実際にそうであると思い込んでいる人も多い。
 しかし、「大昔に軽い気持ちで行った契約に従って、外部世界から結婚を迫りに来る連中」の存在は、『オンリー・ユー』を彷彿させる。
 ルパの幼少時のラムへの一目惚れは、『リメンバー・マイ・ラヴ』のルウと共通している。
 ラムが成長の一環として角を一時的に失うという設定も、ラム達異分子についての記憶を人々が根こそぎ失いかけるという設定も、あたるが「走る」事でそれを防ぐという設定も、『ラム・ザ・フォーエバー』と不思議な程共通している。
 原作とアニメは作風がかなり異なっているのだが、似てしまう所は自然に似てしまうのかもしれない。
 『ビューティフル・ドリーマー』では半ば墜落死の恐怖からラムの名を叫んで全てを解決したあたるであるが、ラムに口先だけで「好きだ。」と言えば全てが簡単に解決する状況において、敢えてその安易な手段を放棄し、苦難の道を選んでいる。これこそ真のイニシエーションであり、終局を飾るに相応しい話である。
 こうした意味で、本作は原作最終巻をなぞりつつも、自動的に『うる星やつら』映画の集大成に仕上がっているのである。
 
いつだってマイ・ダーリン
 恋愛をめぐるドタバタ喜劇の末、主要登場人物がある事を「学んだ」気になるが、錯乱坊がほんの少し刺激を与えただけで、「学び」は一瞬で消し飛んでしまった、という内容である。
 劇場版『うる星やつら』とは、「登場人物に成長を迫る作用とそれを取り消そうとする強い反作用のせめぎ合いである。」と喝破したようなラストシーンであった。
 その意味では、押井版『うる星やつら』の最終回であるテレビ版第129話「死闘!あたるvs面堂軍団!!」に近い。
 酒場の場面で、テレビ版第38話「この子はだあれ?」に登場した宇宙人が「ウメズ星系のタマシ星人」だとされている。酒場の場面で彼等を敢えて再登場させたのは、「酒を飲む事が大人である事を意味するのではなく、また赤子の外見をしている事が赤子である事を意味するのではない。心の成長が大事なのだ。」という主張を込めるためであると思われる。
 
まとめ
 劇場版『うる星やつら』については、それぞれの作品を個別に解釈・評価する向きが強い。
 しかし、相互の類似性・関連性に着目しつつ解釈していくと、かなり有機的なつながりを持っている事が判る。
 作品ごとに好き嫌いが分かれるのは当然であるが、特定の物語の神聖視や蔑視のし過ぎによって、全体を通じた解釈を行わないというのは、実に惜しい事である、と私は主張する。
うる星やつら TVシリーズ 完全収録版 DVD-BOX2

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うる星やつら〔新装版〕 34 (34) (少年サンデーコミックス)

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