施餓鬼会

生物に捧ぐ
 シモンは砦の東の窓から外の光景を眺めた。そこでは、食屍鬼達が、食人鬼にも食屍鬼にもなれなかった人間の死体を食らっていた。
 南の窓から見える光景は、確かに東の窓から見える光景よりは、希望が持てるものであった。そしてそれ故に、より残酷でもあった。そこでは、食人鬼達が、残り少ない生きた人間達を襲っていた。
 人間達は必死に、北西に位置する魔方陣を目指していた。食人鬼が決して跨ぐ事の出来ない、魔法の陣である。
 シモンのいる砦を目指して逃げる者は少ない。東北の門に結界が張られていないためにやがて陥落するであろう砦である事が、東北の門に群がる食人鬼達の姿から明らかだったからである。
 しかし西の窓の外では、その魔方陣の中で人間達が殺し合っていた。
 殺し合いが始まったのは、三日前に、魔方陣の効果に限界があると判明したからである。魔方陣の中で発症した食人鬼には、魔方陣は無力であったのだ。
 食人鬼に噛まれた者の発症率は50%。しかも発症者の半分は生者には無害な食屍鬼になるというのに、魔方陣の中ではせっせと負傷者の粛清が行われていた。
 殺す者も殺される者も、真の動機が残り少ない食料の奪い合いである事に気付いていた。そして更に、一部の賢い者は、これが食料の「生産」でもある事にすら気付いていた。魔方陣の中の人々は食屍鬼を恐れ蔑みつつも、既に同胞の屍骸に食欲を感じ始めていたのだ。
 耐え切れなくなった一人の少女が、魔方陣を飛び出し、シモンのいる砦を目指して走ってきた。もしも砦まで来られたなら入れてやろうとシモンは待ち構えていたが、少女は新鮮な屍骸を見つけた途端、方針を変えてしまった。
 砂漠の太陽も風も光景も、シモンには全てが息苦しかった。
 逃亡者であるシモンがこうして地獄の光景に眉を顰めていられるのも、実はこの光景自体の御蔭であった。王国内の主要都市をほぼ同時に襲ったこの大感染がもし起きなかったならば、いかに腐敗した王国政府とて、確実にシモンを捕縛し得ていたであろう。
 その事実は、シモンが目の前の光景から目を背けて平和な日常世界を夢想する度に、重く圧し掛かってくるのである。
 眼前の地獄と、今こうして生きているシモンとは、同じ原因から生まれた双子の兄弟であった。
 環境のもたらす息苦しさと、堂々巡りの思考のもたらす不愉快さとによって、シモンは目の前に居る老僧の事が嫌いになっていった。昨日は尊敬したその悟り済ました顔に対し、皮肉の一言も浴びせなければ気が済まなくなってきていた。
「食人鬼の、なんと浅ましい姿よ。死すともああはなりたくないものだ。」
 そうシモンが言うと、一字一句違わずシモンの予想通りの返答が戻ってきた。
「餓えにかられて何かを食らいたがるのは、いかなる生き物とて同じじゃ。彼等の貪る姿は、偶然にも我々に不快感を与えるかもしれんが、我等はその姿の中に自分を見出さなければならぬのだ。」
 そこでシモンは用意していた反論を、空想の中で何度も繰り返し練習した抑揚に従って、説いた。
「文化の欺瞞性は、既にこの現実が告発している。和尚のその定型的な告発を聞いて、新たに大いに開眼させられる者が、今この世界にどれだけいるだろうか?もっと役に立つ事をしてくれ。」
 すると今度は、完全にシモンには予想外だった事に、老僧は軽妙な口調で言ったのである。
「では、施餓鬼会でもやるか?」
「何だそれは?」
「もうすぐこの砦の東北の門が破られそうじゃろ。門を攻めている食人鬼どもに餌を与えて大人しくさせるんじゃ。最悪の場合でも時間稼ぎにはなろうし、上手く行けば餌付けして飼い馴らせるかもしれんぞ。生きている価値が無さそうな生贄を連れて来い。拙僧が上手に料理してやるでの。」
 シモンの食指が動いた。シモンは安全な西南の門から飛び出して、首都のあった東の方角を眺めた。
 実はその瞬間こそ、シモンが予測した、半官半民の賞金稼ぎの姿が見え始める時刻であったのだ。そして実際に、賞金稼ぎのソナソナの姿が見えたのである。
 ソナソナは、自分に近付こうとする全ての食人鬼達を右手の大刀でたいらげつつ、通常人の歩行速度を完全に保ったまま、シモンの前に来た。
「久しいな、かつての同僚ソナソナよ。貴様だけは私を追ってくると思っていた。お前は強く、そして割に合わない仕事も必ず最後まで遣り遂げていたからな。だが今度ばかりは流石にもう無意味な任務だろう。貴様を派遣した王国は既に無く、賞金も出ないだろうし、出たとしてもその使い道は無いのだから。どうだね?また私と組まないか?そうすれば、二人とも、もう少し生きていられるだろう。」
「王国が既に無いだと?笑わせるな!王国に所属する私がこうして生きている以上、弱体化したとはいえ、まだ王国は滅んでいない。構成員は一人居る。そして賞金もまた出せるようになった。賞金を出す王と受け取る英雄とがこうして同一人物になったのだからな。栄えある賞金の使い道は、賞金による出費の埋め合わせだ。」
「馬鹿な。そんな事をして何になるんだ?」
「失われた正義の回復は、それ自体が最大の目的なのだ。」
「冷静に考えろ。今の貴様は狂っているぞ。」
「そうかもしれん。だが、どうせいつかは死ぬというのに、生きている事それ自体を目的としている、動物や食屍鬼や食人鬼や貴様程には、狂っていない積もりだ。処刑命令の確実な遂行こそ、人が人であるという欺瞞を守り抜く、文化の最低限なのだからな。ところで私を仲間にして何を手伝わせる計画だったんだ?まさか施餓鬼会ではないだろうな?」
「ええい、問答無用!」
 
 やがてソナソナの屍骸を抱えて砦に戻ったシモンの姿を見て、老僧は嘆息した。
「殺してしまったのか。それでは、食屍鬼は手懐けられようが、肝心の食人鬼を手懐けるのは無理じゃて。」
 これに対しシモンは見事に反論した。正にこの瞬間の爽快感を夢見て、シモンはかつての友人を苦労して殺すという作業を耐え抜いたのだ。老僧の驚愕した顔が、ここ数日間の全ての苦悩を癒してくれた。
「さっさと食屍鬼を手懐けて、食人鬼を襲わせろ。どこまでも知恵の足りぬ坊主め。」