『魔法少女まどか☆マギカ』全話視聴計画([新編]叛逆の物語)

 忙しくて後回しにしている内に永久に観に行けなくなりそうになったので、本日『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』を無理矢理にも観賞してきた。
 映画が始まって最初に後悔したのは、魔女文字を暗記しておかなかった事である。魔女文字を読解出来なかった事で、受け取る情報が不十分になってしまったのである。
 先賢の研究成果に依れば、魔女文字は英語のアルファベットと一対一対応になっているらしい。よって、他人の研究成果に依拠さえすれば、古典ギリシア語のアルファベットを覚えた時と同じ労苦を払うだけで暗記できた筈である。しかし、いつか自分で読解してみたいという欲望が中途半端にあったせいで、ついうっかりこうした事態を招いてしまった。反省する事しきりである。
 映像については、今回も芸術的な場面が多々存在していたが、「布団がどれだけ波打っても模様の水玉には一切影響しない」というTV版以来の伝統(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20121023/1350925265)は健在であった。
 しかし今回の場合はこれも、「一見精巧に創られた世界だが綻びもある」という後述の設定を匂わせたものだと言えなくもない。
 以下、話の流れに沿って気付いた事を述べていく。
 まず気付いたのは、悪意の欠片も見せない鹿目知久がトマトを収穫し、これまた善悪の観念すらなさそうな幼児の鹿目タツヤがそれを無心に食べようとする場面の意味である。タツヤがフォークでトマトを刺そうとする直前、視点はトマトのものとなり、タツヤは巨大で残虐な捕食者の様に見える。これこそが、悪意も無しに少女を燃料として使い捨てにしていくキュゥべえ達とその犠牲者の関係を予告していたのである。
 この場面はTV版の第一話から存在したが、その重大性に気付いたのは今回が初めてであった。
 学校では早乙女和子がマヤ暦における世界終焉を乗り切っただの2050年迄に世界がどうなるだのといった話をしていた。これは、文明が現実世界よりも遥かに進んでいる作中世界が、「未来」というよりも「平行世界」である事を明かした、貴重な発言であった。
 早乙女は自己やその同類が救われない世界の滅亡を願っているようでもあった。不穏当な発言にも聞こえるが、実はこれこそがかつてTV版で鹿目まどかが達成した事業の半面を描いたものであるという事を、忘れてはならないだろう。
 上条恭介の電話番号が「090」で始まっていた事も、舞台の雰囲気を我々の世界に「近付け」ていた。その次の三桁である「XXX」が、伏字なのか、電話番号において十進法が放棄された世界を意味しているのかは、謎である。
 「現実感が増してきたのには、何か裏があるな。」と思っていたら、案の定であった。まず手回しの幻灯機が登場し、世界が誰かの見せている夢である事が示唆される。
 その事に気付き始めた暁美ほむらは、佐倉杏子を誘って見滝原市の外側に出られるかを実験しに行く。この行程は極端に抽象化され幻想的雰囲気の中に包まれており、私の好みに合っていた。
 外側に出るための交通機関を利用しても、歩いても、二人は決して外側には出られない。
 そしてほむらは、この箱庭的世界が存在するのは、それを望んだ者がいるからだという結論に達する。
 この流れは、『うる星やつらビューティフル・ドリーマー』の影響が強いと思われる。系譜を更に遡れば『荘子』へと行き着く。
 因みに、映画館でメモを書くための土台として私が選んだ書籍は、偶然にも岩波文庫版の『荘子』であった。しかも全四冊を持ち運んでいたのに、これまた偶然にも胡蝶の夢の話題が登場する内篇を土台に選んでいたのである!
 このため、「もうこうなったら私は最後まで暁美ほむらとともにあるしかない!」という気分になった。
 その後、箱庭的世界を作ったのがほむら自身の願望である事が判明し、それがキュゥべえ達の実験のせいであるという事も判明する。「円環の理」となったまどかが創造した新世界においてもまどかの干渉を防いで魔女を作るための研究を、キュゥべえ達はしていたのである。
 結局はこの目論見は失敗し、まどかは勝利する。TV版でまどかは未来の自分自身を含む全ての魔女を浄化しているので、この勝利自体は宗教における絶対神の勝利と同様に、予定調和的なものである。
 だがその直後、ほむらは「円環の理」から普通の人間だった頃のまどかの部分だけを切り離し、自己流の次なる新世界を創造してしまう。
 これはまあ当然そうするだろうな、と思った。ほむらが無限の時をかけて愛していたのは「円環の理」ではなく、「鹿目まどか」という一個人であり、相手に求めていたものは「円環の理」になる事ではなく一個人として平和的に生きる事であったのだから。
 創造主となったほむらは「悪魔」を自称し、また自分がそうなった原因をまどかへの「愛」だとする。
 現在ほとんどのアニメーション作品が明治以降のキリスト教の影響から「愛」をほぼ無条件で良いものとしており、せいぜい「愛国心」や「変態的性愛」を稀に醜悪に描くだけである。そんな中で限りなく友情に近い「純愛」の反倫理的側面をここまで真正面に描いた作品は珍しい。だが遡れば大半が全ての愛を迷妄と見做す仏教徒であった江戸時代の日本人は、「義理」と「人情」とが相克する諸作品を楽しんでいたのである。
 もちろん、ほむらの行為は単純なる悪として描かれたという訳ではない。詐欺的手口で魔法少女にされてしまった挙句、同類の救済に東奔西走する事になったまどかの人格を元の人生に戻してやり、救済のシステムはそのまま存続させているのであるから、考え様によっては「犠牲者」を更に一人減らしたのだとも言える。
 ほむらの新世界のまどかは、ごく普通の転校生である。この平凡な状態を作るためだけに、ほむらが無限の愛を持って無限の時を費やした事を思うと、慄然するとともにやはり崇拝してしまう。
 最後にまどかは欲望よりも秩序を重んじるという見解をほむらに表明する。これは将来的に二人が敵対する可能性を示唆していたが、ほむらはそれでも良いと思ったらしい。
 無限の愛の内容に「相手の自由意志の尊重」が含まれている場合、それは矛盾に限りなく近い。この種の微妙な関係は、こうした「最も愛した被造物に自由意志を与えた創造主」という典型例のみならず、親子関係や恋愛関係等にもしばしば見られる。

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