八幡和郎著『本当は間違いばかりの「戦国史の常識」』(ソフトバンククリエイティブ・2012)

本当は間違いばかりの「戦国史の常識」 (SB新書)

本当は間違いばかりの「戦国史の常識」 (SB新書)

評価 知識1 論理2 品性2 文章力1 独創性1 個人的共感1
 新規性・独自性を装うために冒頭で学会を等し並みに誹謗してみせ、その後に自分の考えを述べるという、有りがちな種類の書籍である。ただし、日本史部門においてこの手法で成功した『逆説の日本史』等とは違い、具体的にどんな学者がどの論文で駄目な説を唱えているかという話は一切登場しないので、この種の書籍の中でも特に底辺層に属する書籍であると言える。
 実際の「戦国史の常識」とやらへの攻撃は28ページから始まるのだが、内容は大方の予想通り、正しいが新規性がない主張か新規だが誤った主張のどちらかである場合がほとんどであり、稀に例外があるといった程度である。
 最初の節は「日本文化をつくりあげたのは室町時代」と題されている。これは学校の教科書等でもしばしば主張されている「常識」なので、読者の多くは早速この常識の破壊が始まるのかと期待したと思われる。だが残念な事に、書き出しは「「室町時代」ほど日本史で貶められてきた時代はない。」なのである。つまり著者は、「日本文化をつくりあげたのは室町時代ではない。」というのが「常識」であると思い込んでいるか、あるいはそう思い込んでいるように装っているのである。そして通説中の通説を用いてそれを「論破」し、間違いばかりの常識を打倒したというポーズを採っているのである。よってこれは前述の分類に従うならば「正しいが新規性がない主張」である。
 次の節は「足利将軍は徳川将軍より強く怖かった」という題である。些細な過失から改易を通告された大名家のほとんどが刃向わずに解散したため、莫大な領土を一兵も損なわずに次々に接収出来た徳川将軍よりも、足利将軍の方が強くて怖いとは、どういう事だろうか?これについては著者は、足利義満足利義教といった例外的な存在を「たとえば」と書いて紹介し、自己に都合の良い話を組み立てている。これは前述の分類に従うならば「新規だが誤った主張」である。
 全体的な姿勢がこのように駄目なだけではなく、個々の記述・表現にも危うい所が多い。以下はそうした細かな問題点の指摘である。
 36ページ、「江戸時代には、島原の乱大塩平八郎の蜂起、農民一揆のようなものを別にすれば戦いと呼べるようなものはなく、真の天下泰平が続いた。」とある。著者はシャクシャインの戦いを知らないのだろうか?それともそうしたものまでをも、「のようなもの」として「別に」してしまったのであろうか?
 41ページ、「義輝が在職した期間(一五四六〜六五年)は、桶狭間の戦い川中島の合戦の時代であり、南蛮人がやってきて鉄砲やキリスト教が伝わるなど、」とある。一般に鉄砲の日本への伝来は西暦1543年であると言われる。ひょっとしてこの「戦国史の常識」を打ち砕いてくれるのかと一瞬だけ期待してしまったのだが、23ページの年表は常識に従っていたので、おそらくは単なる誤記だったのであろう。
 102ページでは織田秀信について「宰相に昇進した。」と書かれている。日本の律令官制における「参議」の唐名の一つに「宰相」があるのは事実であるが、一般に特に説明も無く現代日本語で「宰相」と書くと首相級の地位が想定されてしまう。よってこの無駄に気取った記述は実に不適切である。
 141ページの最後の段落では、武田滅亡後にその旧領を得た人物として、家康・滝川一益森長可木曾義昌・毛利秀頼・穴山梅雪・川尻秀隆の名が挙げられている。そして次の段落は「だが、信長の死を知った土豪たちが反乱を起こした。彼らは持ちこたえられず、濃尾地方の本領に逃げ帰ったのである。」で始まっている。だが家康は逃げずにむしろ領土を拡大した立場であるし、滝川一益の本領は伊勢であるし、木曾義昌の本領は信濃であるし、穴山梅雪はそもそも土豪と戦う以前に本能寺の変の余波で死んでいるし、川尻秀隆は現地で戦死しているので、「彼ら」に当て嵌まりそうなのは森長可と毛利秀頼の二人だけである。
 166ページには「江戸時代には、女の園である「大奥」のようなところに隔離されていた女性たちが、戦国時代には男たちと対等に渡り合っていたのである。」とある。だが戦国時代においては流石に合戦で男性と対等に戦うのはほぼ不可能である一方、江戸時代の大奥は強大な政治力を持っていたので、著者の様な見方は一面的過ぎる。
 198ページには「南部藩士からは、近代になっても原敬、米内光政、東条英機と三人の首相をだしたが、」とある。だが米内光政・東条英機が誕生したのは廃藩置県の後であり、二人には南部藩士だった過去は無い。
 201ページでは伊達政宗について「もし、もう少し遅く生まれていたらというのでなく、畿内に近いところに生まれていたら、あるいは、大崎領でなく西国に移封されて大陸遠征にでも参加していたら、歴史を変えるような動きをしたのかもしれない。」とある。「もう少し遅く生まれていたら」は「もう少し早く生まれていたら」の間違いであろう。また実際には政宗文禄の役に参加している。
 213ページには「期待のホープだった」という不適切な表現がある。
 263ページの「洋書はおろか中国語に翻訳された洋書までほとんど輸入させなかった」という記述も、言いたい事は文脈等から想像がつかなくもないのだが、同じ文の中で「洋書」という単語に二つの異なる意味を与えてしまったのは、やはりよろしくない。
 そして最後に、中身以上に気に食わなかった初版の帯の文を告発しておきたい。「すべての論争に最終決着!」だそうである。