義帝時代の封建の傾向

 中華の歴史において、南方を根拠に天下を統一した人物と言えば、熊心(義帝)・朱元璋洪武帝)・孫文蒋介石の四人ぐらいしか思い浮かばない。しかも後三者の時代の華南が既に地理的にも生産力の観点からも既に中華世界の辺境ではなくなっていた点を考慮すれば、義帝による統一が如何に空前絶後の偉業であったかが解るであろう。
 ただしまた彼は、朱元璋の様な功臣粛清の才覚が無いために項籍の台頭を招き、孫文の様な北方の実力者に地位を譲る現実感覚も無いために項籍に命を狙われ、蒋介石の様な何所までも逃げて抵抗する粘り強さも無かったために、終に四人の中で最も悲惨な最期を遂げたのである。
 今回の本題は、義帝時代に項籍の主導で行われた諸王の封建の傾向である。
 項籍の封建は身内贔屓の杜撰なものであったとしばしば言われ、また実際に田栄・陳余の実力を見誤っていたのは事実としか言い様が無いが、それでもある種の計算は見て取れる。
 まず復活した旧七雄の君主が、原則全員降格となっただけでなく都まで変更させられている。魏王は西魏王に、趙王は代王に、燕王は遼東王に、斉王は膠東王に、それぞれ「徙」されているのである。しかも趙・燕・斉の旧都を与えられたのは、直前までその国の宰相や将軍だった人物ばかりである。中でも遼東への転封を渋った旧燕王は、かつての部下である新燕王に殺されている。余談だが、唯一この大変革を免れたかに見えた韓王には、抑留の後に侯爵にまで降格された上に結局殺されるという最低最悪の末路が待っていた。
 これは、宰相や将軍がかつての王と地位を逆転するという事態を、そして場合によってはかつての王を殺してしまう事態を、「最近ではよくある事」にしてしまおうとする計画であったと思われる。勿論それは、項籍がかつての主君である義帝に郴へ「徙」る事を強制したり、項籍の密命を受けた呉芮・共敖がかつての主君である義帝を殺したりする時に備えたものだったのだろう。
 こう見ていくと、「左遷」という故事成語で特別視されている劉邦への処遇も、「旧来のルールに従うなら秦王である人物を、秦領内の辺境地域のみの王に降格し、秦将出身の成り上がり達に牽制させる。」という、極めて原則通りのものだったとすら言える。