三好徹著『三国志激戦録』(光文社・2011)に御注意

三国志激戦録

三国志激戦録

 三好徹著『三国志激戦録』(光文社・2011)という本を図書館で見かけた。適当に中身を見ると、問題のある記述ばかりが目についた。一応ジャンルは「小説」らしいので、本来なら史実に基いた批判はするべきではないとも思った。しかし著者が実在の資料を元に設定を語る文の中にも間違いが多く、またそうした文では『三国演義』の内容がフィクションとして退けられており、帯にも「精緻な考察と豊富な資料を駆使した」と書かれており、題名も文体もノンフィクションと誤解されかねないものなので、敢えて批判に踏み切った。
 いかにも事実の如く語られている設定に数多くのフィクションが混じっている事を伝えるため、特に問題だと思った部分を厳選して列挙していく。なお小説としての価値については、本題ではないので敢えて論評しない。
 7〜8ページでは、曹操の名参謀達の伝よりも呂布の伝の方が『三国志魏志において先に登場する件について、「つまり歴史においては、いかに有能であっても、誰かに仕えたものは、独立独歩だった者よりも、その存在感において重くないという評価のようである。」と語っている。実際には巻六・七・八に登場する諸侯級の連中も名目上とはいえ漢王朝に仕えていたのだが、この程度はまだ許容範囲である。
 だがこれに続けて著者は「唯一の例外は、諸葛孔明だけなのだ。」としている。これは流石に駄目である。もし諸葛亮だけがこの法則の例外なのであれば、蜀志においては諸葛亮伝と関張馬黄趙伝との間に、呂布に匹敵する独立勢力が存在しなければならないだろう。これは完全に嘘である。
 10ページでは『三国志袁紹伝の裴注に引用されている『九州春秋』の中にある発言の出典を「袁紹伝」と表記している。これはこれで著者のスタイルと言えなくもない。しかし64ページでは、同じく『三国志袁紹伝の裴注に引用されている『献帝伝』の中にある発言の出典を「献帝伝」と表記し、しかもそれが袁紹伝に引用されている事すら明かしていないのである。こうしたルールの不統一はやはり問題である。
 49ページでは一度は皇帝になったものの弘農王として死んだ劉弁について「少帝と贈り名された」と書かれているが、劉弁の正式な諡号は「懐王」である。
 52ページでは太傅を「皇子たちの守り役」としているが、太傅は皇帝の補助者である。おそらくは「太子太傅」と混同したのであろう。
 56〜57ページでは、後漢時代の諸官職に既に「九品」が設定されていたかのように書いているが、これは魏以降の制度である。
 57ページでは曹操の大将軍就任に関連した記述で「大将軍の前任者は何進だが」としているが、何進の死から曹操の大将軍就任の間には、韓暹が大将軍に就任している。
 115ページでは「さらに劉備は無官だったが、曹操の上奏で献帝から左将軍兼予州牧に任命された。」とある。この記述では、無官の劉備が突如として二つの官職を得たように読めてしまうが、実際には劉備はこれ以前にも正式な鎮東将軍であったし、予州牧に任命されてから左将軍になるまでの間には、呂布の死という大きな事件があったのである。
 116ページでは董承を「献帝の皇后の父」としている。実際には董承の娘は献帝の側室である。
 117ページでは董承に関する記述において「要するに、苦労知らずの文官である。(中略)それは戦場に立って、自分の命を懸けて戦う前の、あの譬えようもない息苦しさと、それこそ紙一重の武者震いは、文官たちには決してわからない。むろん献帝も知らない。」としている。83ページにも類似の記述がある。実際の董承は、様々な苦難を乗り越えて献帝長安から洛陽へと連れ戻した将軍の一人であり、車騎将軍になる前の経歴も安集将軍・衛将軍と武官ばかりを歴任している。献帝も当然ながらこの命懸けの逃避行を経験している。
 同117ページには「車騎将軍は、大将軍に次ぐ高位で、多くの将軍職の中の第一位であるが、」という、矛盾を孕んだ記述がある。また驃騎将軍の権威は車騎将軍以上と一般に理解されているので、この記述は二重に駄目である。
 同117ページでは劉備について「皇叔と尊称されていた。」としている。この『三国志』にはない称号といい、董承の文官風の印象といい、117ページの前後は『三国演義』の影響が強い。小説なのであるから、『演義』の設定の一部を活かすのは別に構わないのだが、『演義』設定を採用するなら採用するで、それを正直に書いて欲しいものである。
 118ページでは、先主伝に引用された『華陽国志』における劉備の『論語』郷党篇の「迅雷風烈必変」の解釈が朱熹の解釈と違っている件について、劉備の方が間違っているのを大前提としているが、朱熹流の解釈が後漢末においても主流であったという保証は無い。因みに十三経注疏に残る後漢末の有名な思想家である鄭玄の説は、朱熹流の方向にも劉備流の方向にも発展し得る、極めて簡素なものである。
 123・124ページでは、『六韜』が銀雀山一号墓から出土したというだけで、後世の偽作説は間違いであるという方向に話を進めている。確かに後漢以後に作られたという説は滅んだと言えるが、これだけではまだ太公望の著であると証明されたわけではない。
 126ページでは先主伝の「荊州豪傑帰先主者日益多」という記述の「豪傑」を現代日本語の「豪傑」の意味で解釈したらしく、伊籍について「法律にくわしく弁が立つ男で、豪傑というイメージはない」と書いている。
 181ページ、「官吏に任命されるためには必要な資格である茂才」という表現がある。郷挙里選の科目は茂才に限られたものではなく、また郷挙里選のみが官人への道でもなかったので、これはちょっとした書き間違いではないかと当初は思った。しかし次の段落で、桓帝時代末期に正当な手段で羽林郎になって以来経歴を積み重ねていった董卓について、「すでに、実力がモノをいう時代になっていた。現に董卓は官吏としての資格なしに、三公よりも上位の相国になっていたのだ。」と書いているので、どうやら本当に茂才だけが正式な官吏への道だと思い込んでいるようである。
 184ページ、馬騰が衛尉になった後の彼の息子達の処遇について、「曹操献帝に上奏して、馬休、馬鉄に都尉の官位を与え、同行していない馬超を徐州刺史に任命してもらった。」としている。だが馬超伝に引用される『典略』の記述によれば、この時に馬超が任命されたのは偏将軍であり、徐州刺史や諫議大夫といった地位は、郭援を倒してから父親が入朝するまでの間に歴任したものである。
 200ページでは夏侯淵が率いた軍を「夏軍」と略している。まさかとは思うが、「夏侯淵」のどこまでが姓でどこからが名であるかを知らなかった可能性がある。
 289ページでは馬良を五人兄弟の長兄としているが、馬良の字は「季常」なので、長兄という可能性は低いであろう。
三国志演義 (一) (講談社学術文庫)

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正史 三国志 全8巻セット (ちくま学芸文庫)

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華陽国志 (中国古典新書続編)

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論語 (岩波文庫 青202-1)

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[新装版]全訳「武経七書」3六韜・三略

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