『説文解字』は、後漢時代に書かれた有名な漢字の解説書である。甲骨文の研究が進むにつれて文字学の世界ではかなり権威を失ってしまったが、漢字圏におけるこの約二千年間の文字観を支配した書籍であるので、その意味での資料価値はやはり高い。
この書の第一篇上に「王」の字の解説がある。ここでは、横棒を天・地・人に見立て、それを貫くのが王であるという、董仲舒の説が紹介されている。
葛洪の『神仙伝』には、この「王」観の強い影響の下で成立したと思われる話がある。巻三の「河上公」という仙人の話である。
漢の文帝が「全世界の大地は全て王の領土であり、そこに住む人間は皆王の臣下であるのだから、仙人である君も私の王権に服しなさい。」と河上公に命じた所、河上公は座ったまま空中浮遊をして「私は、『上』については天に届いていないし、『中』については人にわずらわされていないし、『下』については地面に住んでいないので、王権とは無関係だ。」という意味の反論をしたというのである。
高く浮遊し過ぎて「天」に属してしまってはやはり王権が及んでしまうというこの発想の背景には、説文解字流の「王」観があったのだろう。
安部公房には、これに酷似した論法が登場する『鉄砲屋』という作品がある。
主人公のトム・B氏は、「くまん蜂号」というヘリコプターで「馬の目島」に来る。水平移動する飛行機は見慣れている島民も、垂直移動をしたり空中で静止したりするヘリコプターに驚いてしまう。これだけでトム・B氏の権威は初めから高くなる。
トム・B氏は「まっすぐ空から降ってきたもの」には馬国の外国人取締法規は適用されないとして、自らを法外の存在だとする法解釈を唱え、島の政治・経済を乱す活動を自由に続ける。やがては、「物理学的に言ったって、私と地面との分子間隙は、永遠にふさがらないんですからな。私は物理学的に、まだ空中に浮んでいるのだ。だからここに、法理学的に見たトム・B氏の不在証明が成立する。」とまで言い放つのである。
牽強付会になってしまうが、空中浮遊を売り物にしていたオウム真理教が国家のルールに従わずに国家内国家を築いて反乱を起こしたのも、この系譜の末端に属していると言えなくもない。
新興宗教が売り物にする奇跡の種類は数多いというのに、その中で敢えてこの空中浮遊を宗教的巨悪の特技として選んだ『20世紀少年』は、やはり名作だったと思う。
余談だが、安部公房には『ノアの方舟』という、やはり天地の境界が重要な意味を持つ作品が存在する。
この作品では、エホバが「地球の表面は、天に含める」という論法を活用し、二人で天と地とを分け合う際に騙されて「地」を選んでしまったサタンを、地球の中に閉じ込めてしまっていた。
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