ドン=キホーテは本当に狂っていたのか?

ドン・キホーテ 全6冊 (岩波文庫)

ドン・キホーテ 全6冊 (岩波文庫)

 『ドン=キホーテ』は、アラビア語で書かれた原作を翻案したという体裁を採用している。訳注等を読んだ限りでは、これは当時の騎士道物語で流行していた形式を意図的に模倣したものだという事になっている。しかし私は、この形式にもう一つ別の効果がある事に、最近気付いてしまった。
 それは「普通の三人称小説と違って地の文の信頼度が100%ではない」という事である。
 普通の三人称小説では、語り手は神の立場である。その見解は100%正しいのが前提だ。しかし実在の騎士のアラビア語による記録をスペイン語訳したという形式の場合、いくら地の文で「ドン=キホーテにはそれが巨人に見えた」と書かれても、それは神ならぬ記録者・翻訳者の一種の解釈に過ぎない。
 こうして私の様に疑り深い読者は、「この男、本当に狂っているのか?」という解決不能の疑問に苛まれるのである。それはあたかも現実世界における日常生活で、他人が意思を持った主体なのか精巧なチューリングマシーンなのか幻なのかをめぐって一生悩まされ続けるのと似ている。安部公房の『人間そっくり』にも通じる恐怖である。
 この騎士の周辺にいる連中は、自分では自分がドン=キホーテと違って正気を維持していると思い込んでいる。だが今日的な基準では、より危険視されるべき連中も多い。
 例えば序盤では、自分が気に入らない騎士道物語の諸本なら他人の所有物であっても裁判にかけて燃やしてしまう司祭が登場する。この司祭、表向きは騎士道物語を敵視していながら実はやたらと内容に詳しく、自分が良いと認めた本だけは燃やさなかったりする。おそらく陰ながらこのジャンルの諸作品をドン=キホーテに負けず劣らず愛読していたのであろう。それでも司祭として社会的に期待される役割を必死でこなしているのである。
 ドン=キホーテはこういう連中の前で、敢えて偽悪的に非実在の職業を演じていたのかもしれない。ドン=キホーテのメッセージが、「仮に遍歴の騎士を演じる儂が狂人であるとして、司祭を演じる汝はまともか?」というものであったとしたらどうであろう?このメッセージは今でも有効だ。会社員を演じるそこの貴方、キリスト教徒を演じるそこの貴方、家族を演じるそこの貴方、市民を演じるそこの貴方、人間を演じるそこの貴方に対して・・・。
 「いや、こいつは単なる狂人だ!」と周囲の登場人物や読者が思い込もうとする度に、ドン=キホーテは常人を越えた溢れる知識と見識を披露する。サンチョ=パンサは頓智を披露する。こういう点でも、日本の実在の偽悪者である一休宗純に似ていると言える。
 後半ではスペインからモーロ人を追放する法令が物語に取り入れられる。カトリックに改宗していたとしても、人種としてモーロ人であれば追放されるのである。現代から見ると、そして当時の冷静な人間から見ても、まさに狂気の時代である。当時の権力者とドン=キホーテ、果たしてどちらがより激しく狂っていたのであろうか?
人間そっくり (新潮文庫)

人間そっくり (新潮文庫)