『孔子の教え』を「馬」で読み解いてみた。

 本日は映画『孔子の教え』(http://www.koushinooshie.jp/)を観てきた。ある中国哲学の研究者から無茶苦茶つまらないと聞かされて以来、怖いもの見たさが募り続けていたのである。以下は分析や感想等である。
 別に奇を衒ったレビューを書く予定ではなかったのだが、観終る頃にはかなり独特な結論に達してしまっていた。それは、「この映画の最大の鍵は「馬」だ」というものである。
 孔子は概して動物に冷たい。『論語』八佾篇では、弟子の端木賜が羊を儀式の生贄に使う事に反対していたのを戒めている。馬の命の軽視については、郷党篇の話が有名である。馬小屋が焼けた際に、孔子は人間が死傷したかどうかだけを尋ねて馬については尋ねなかった、とされている。
 こうしたエピソード自体は、映画の中で直接的に描かれる事は無かった。しかしながら、孔子と馬が潜在的な敵対関係にある事が示唆され続けていた気がした。
 物語は、魯国の実力者だった季平子の死に際し、多くの人間が強制的に殉葬させられる所から始まる。この場面では、人間だけでなく馬も殺されている。
 やがて舞台は朝議の場面へと移り、主役の孔子が、動物を憐れむ心があるなら人間も憐れんで殉葬の制度を止めるべきだという、孟子風の論法を展開する。しかし馬については全く触れなかったのである。
 その後しばらくは、魯の君主である定公も実力者の季桓子も孔子を支持し続けるという、孔子の黄金時代が描かれる。だがある時点で孟懿子が季桓子に対して孔子支持の中止の説得に成功したため、その後は延々と失意の暗黒時代が続く。そして季桓子が、この突如として孔子の敵となる場面で孟懿子の話を聞きながら行っていた作業は、何と馬の世話だったのである。
 暗黒時代のエピソードの第一弾は、有名な孟懿子の要塞の破壊計画の中止である。そして第二弾は、これまた有名な斉国の女楽団進呈の受け入れなのだが、劇中ではここで斉国が名馬も大量に贈ってきた事になっていたのである。
 歴史・伝承を題材にした物語においては、こういう典拠の無い追加事項の部分にこそ、作者本人の意図が込められている場合が多い。そこに拘って解読するという、まさに『春秋』の「微言大義に対する様な姿勢で臨んでこそ、この種の映画を本当に楽しめるというものである。
 さて、馬を顧みなかった孔子は、こうして女楽のみならず馬をも賄賂にした斉によって失脚する。馬の復讐を受けた様なものである。
 失脚した孔子は馬に車を引かせて衛国へ旅立とうとするが、馬の脚が泥濘に嵌まったりして難儀する。ここでほんの少しだけ、孔子は馬と心を通わせ始めそうになる。ところがその直後、人間の弟子が大量にやってきて、孔子の苦労を数の力で肩代わりしてしまう。馬は再び無視される。
 放浪の旅は続き、宋国では桓魋の弾圧を受ける。ここで桓魋の官命である「大司馬」が何度も強調される。
 一行が陳国・蔡国の軍に包囲された際には、乏しい食料を人間同士で分け合うという、一見感動的な場面が続く。馬がどうなったのかは不明である。
 そして物語終盤、凍った湖を渡っている途中で氷が割れ始めるという場面になる。一行は馬を急がせるが、長年の酷使で弱っていたのか馬の歩みは速まらず、馬が引いていた書籍の大半が湖に沈む。孔子の最高の弟子である顔回は沈んだ書籍を回収しようとして凍死する。馬の復讐の完成である。
 物語の最後では、年老いた孔子が、自分の思想は『春秋』を読めば解ると語る。それまで全く登場しなかった春秋を最後の最後で突如登場させたのは、「この映画の構成には春秋の筆法風の手法が使われているぞ。」という、製作者側からのメッセージが兼ねられていたのかもしれない。
 延々と強調された「馬」に込められた主張とは、おそらく、「現代の倫理思想は環境倫理学の観点を無視した単なる「人倫」であってはならない。それを肝に銘じないと環境に復讐されるぞ!」というものであろう。

論語 (岩波文庫 青202-1)

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孟子〈上〉 (岩波文庫)

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