『三国志』の董卓伝と『後漢紀』と『資治通鑑』では、初平三年に董卓の仇を討った直後の李傕・郭艴・樊稠・張済が、それぞれ車騎将軍・後将軍・右将軍・驃騎将軍に任官したとされている。これだけを見ると張済が一番偉そうなのだが、李傕には与えられた「仮節」が張済には与えられていない点や、前三者が政治への参加を許されたのに張済は首都の遥か東方に駐屯させられる等、不審な点が多い。
一方、『後漢書』の献帝紀・董卓伝では、この時に張済が任ぜられたのは鎮東将軍であるとしている。『後漢書』朱儁伝では興平元年に大尉を罷免された朱儁が驃騎将軍に就任しているので、文献の内部的にとはいえ整合のある筋書きである。
しかも前述の『後漢紀』と『資治通鑑』すら、後の興平二年に李傕・郭艴が仲違いした際に仲裁者として再登場した張済を鎮東将軍であるとしている。なお『後漢書』献帝紀・董卓伝でも『後漢紀』でも『資治通鑑』でも、これに前後して李傕・郭艴・張済は、それぞれ大司馬・車騎将軍・驃騎将軍に就任している。世間を騒がせた二人が昇進して仲裁者が昇進しないのはおかしな話なので、これまた文献の内部的にとはいえ整合のある筋書きである。
以上により私は、「張済は初平三年に鎮東将軍に就任し、興平二年に驃騎将軍に就任した」という立場を取っている。
しかし検証をここで終わらせてしまうのはつまらない。これだけ「張済は初平三年から驃騎将軍だった」説が根強く残ったからには、それなりの根拠があった可能性も捨てきれない。そこで、「それなりの根拠」について二つの仮説を考えてみた。
第一の仮説は、「張済は一瞬だけ驃騎将軍に任官し、すぐ降格し、やがて返り咲いた」説である。総大将気取りで東方諸将の平定を目指して単独で出征するも、戦線は予想外に膠着し、やがて手柄を立てさせないために都に置き去りにしておいた三人衆によって降格処分を通告されてしまった、というのはどうだろう?『後漢紀』や『資治通鑑』の混乱した諸記述も、これならぴたりと辻褄を合わせられる。
第二の仮説は、「張済は盛んに驃騎将軍を自称し、やがて夢が現実になった」説である。こちらは私の立場と矛盾しない。
皆さんはどう思う?
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