秦帝国のラストバタリオン

 少し前に映画『ハムナプトラ3』を観た。
 リアルな兵馬俑は実は呪いで石化された本物の兵隊だったというアイディアが用いられており、終盤ではその石像軍団が復活して戦闘まで行う。これは相当新奇で面白いと思ったものである。
 そして昨日、鶴間和幸著『秦漢帝国へのアプローチ』(山川出版社・1996)を読んだ。
 43ページで、兵馬俑には実用の青銅武器が4万件近く使われていた事と、それら青銅武器を納めたのは二世皇帝の時代であるという推定とが、語られていた。
 また49ページでは、始皇帝陵を暴いた項籍も兵馬俑を発見出来ず、司馬遷兵馬俑の存在を知らなかった事が、語られていた。
 こうした諸情報が私の脳内を駆け巡り、やがて妄想的仮説が結実した。以下にそれを語りたい。
 まず兵馬俑は、二世皇帝時代の秦の上層部にとって、始皇帝の棺以上の機密事項であった。何故かと言えば、まさに「伏兵」だったからだ。二世皇帝を殺した趙高が、劉邦に関中を分割して互いに王になろうという強気の交渉を持ちかけたのも、地下の潜在的な武力を背景にしていたからかもしれない。
 嬴子嬰がさっさと趙高を殺してしまったため、兵馬俑の秘密を知る者はいなくなった。もしこの時に趙高を命だけは(一時的に)助けて兵馬俑その他の帝国の機密を喋らせていれば、劉邦を撃退するなり、関中の分割による講和で済むなり出来ていたかもしれない。
 急造品や鹵獲品でない戦国期の鋭利な武器を持つ4万の精鋭部隊が加わった秦と劉邦の連合軍なら、そうそう簡単に函谷関を明け渡さないだろう。項籍が持久戦を強いられている間に、宋義暗殺事件を憎む懐王が劉邦支持の立場を鮮明に表明すれば、40万の項籍軍の立場はかなり悪くなった筈だ。
 また強大な武力を手にした子嬰が気を良くして劉邦の撃退に専念してしまった場合は、「先に関中を平定した者」の称号が項籍に帰していた可能性が高い。項籍は約定通りに堂々と秦の王になっただろう。ただし秦の民の多くが20万の秦兵を生き埋めにした項籍を憎んでいるので、戦国末期の秦の様に六国に対して常に優位を保てたかどうかは謎である。

秦漢帝国へのアプローチ (世界史リブレット)

秦漢帝国へのアプローチ (世界史リブレット)