日本よ、今こそ帝国たれ!

 少し前に電車の車内広告で見たのだが、ある雑誌が北朝鮮を「帝国」呼ばわりして批判していた。
 私には強烈な違和感があった。
 「帝国」には、複数民族の上にある種の普遍性の高いものが君臨しているイメージがある。成立当初の北朝鮮は、スターリニズムという民族の枠組みを相当超越したものを朝鮮民族に押し付ける帝国であったかもしれない。しかしやがて主体思想というほとんど一民族内でしか通用しないイデオロギーを掲げて民族主義を前面に押し出す様になったのだから、今は「王国」的な悪が主流であろう。主体思想が未だ朝鮮民族過半数の支持を受けていない事を勘案すれば、「公国」または「侯国」的悪とすら言えるかもしれない。
 おそらくその雑誌の編集者は「帝国=悪」・「王国=田園牧歌」という現代日本の俗世間の偏見に従っただけで、特に悪気が有った訳ではないのだろう。
 だがその偏見は何に由来するのだろうか?
 私は戦後に勃興した「単一民族神話」がその主たる原因であると思う。
 多民族国家であった大日本帝国への否定的な感情からか、戦後の日本では敗戦後の日本を単一民族の国と見做す風潮が強かった。この神話は、一定の正の影響も有ったかもしれないが、日本国籍を持つアイヌ民族琉球民族やその他の帰化系の人々の多大な犠牲の上に成り立っていた。
 近年ではこの神話の権威も随分失墜しているが、帝国という言葉に負の印象がある限り、一国の民族構成が単一に近い事を良しとする風潮が密かに生き延び続けていると言えるのではあるまいか?
 最近、地方参政権等を求める外国人に対する「権利が欲しければ帰化すれば良いじゃないか。」という発言をしばしば目にする。この発言に如何程の正当性があるかについては、十人居れば十通りの評価が予想されるが、単一民族神話の強弱によってこの発言の正当性の度合いも変化するという事については、大方の賛同を得られるのではないかと思われる。「この国はA民族のものだ!」と誇っている国に帰化するというのは、大変な勇気を要するものだからである。
 昨年、アイヌ民族先住民族として認める決議が国会で可決された。今こそ、戦前流の同化主義でもない、戦後流の単一民族神話でもない、多文化共生主義が日本に求められている。
帰化させたければ多文化共生主義を勃興させれば良いじゃないか。」
小熊英二著『単一民族神話の起源』(新曜社・1995)・『<日本人>の境界』(新曜社・1998)を大いに参考にした。)

単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜

単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜