韓を継ぐ者

 先日の日記(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20090826/1251220178)で、転封を渋って新燕王に殺された旧燕王に触れた。この旧燕王は韓広という。彼が大人しく遼東に赴任して、西で失った領土を東方への拡大で埋め合わせようという前向きな思考をしていれば、箕氏朝鮮を継いだのは衛氏朝鮮ではなく韓氏朝鮮だったかもしれない。その場合、史実より早く朝鮮半島に「韓国」が誕生していた事になる。
 それにしても、朝鮮半島南部の馬韓辰韓弁韓という国々の名称には、少々違和感がある。中国人が漢字を持たない異民族の国名を音写する際に、理由も無く中原の伝統的な国名を使用するとは思えない。「西の超大国」というイメージからローマ帝国を秦に擬えて「大秦国」と呼んだのと同じく、朝鮮半島南部の「韓」も音よりも概念に由来しているのではなかろうか?
 また紀元前2世紀以後の中国史において、「韓」という勢力名が極端に避けられているのも気になる。平和な時代に皇帝が皇族や実力者に王号を与える際や、分裂時代に独立勢力が国号を決める際には、春秋・戦国時代に存在した伝統的な国名を参考にする事例がかなり多いのだが、「韓王」はほとんど聞いた事がない。韓と同時期に同形式で成立した魏・趙の名を継ぐ勢力は大量にあるのに、韓だけがこうも避けられているのは不自然である。
 「韓王」については、もう一つ不思議な事がある。『史記』の高祖本紀や諸侯王年表では、韓王信は代王に転封された後でも、いやそれどころか匈奴に降伏した後でも、延々と「韓王信」と呼ばれているのである。これは一つには同時代の同姓同名の淮陰人韓信との区別のためであろうが、区別の方法なら他にいくらでもありそうである。
 これは妄想だが、他の七雄諸国には起こらなかった何らかの理由によって韓の正統は韓王信と共に中華から去ったというのが、当時の中国人の常識だったのかもしれない。そしてその正統を受け継ぐ勢力が匈奴から再び分かれて朝鮮半島南部に土着したというのも、万人が首肯する常識だったのかもしれない。