確かに、疑われた側にも問題がある場合がある。

 数日前、小沢一郎民主党代表の公設第一秘書が逮捕された。
 これにつき、民主党凋落という政治的効果を目的とした国策捜査であるとの意見を何度か耳にした。
 この日記では、その意見の正否自体は論じない。
 そうした意見が出てくる事によって浮き彫りになる、日本人の法意識の後進的側面についてこそ語りたい。
 もしも日本の成人全員が近代法の常識である推定無罪の原則を体得していれば、誰の秘書が何人逮捕されようと、ほとんど政治的効果はないはずである。せいぜいベテランが突然消えた事による事務処理の遅滞が発生するだけである。
 では国民こそが悪いという結論になりそうだが、それもまだまだ短絡的である。
 私がここで批判したいのは、捜査機関の普段の態度である。彼等が、例えば防犯ポスター用の予算のほんの一割でも割いて、「私達に逮捕されたからといって、犯罪者だと決まった訳ではありません。」だの「自分や知人が突然逮捕されても、あわてない、あわてない。まずは・・・。」だのと書いたポスターを貼り続けていれば、推定無罪の原則は国民の常識となっていただろう。そうすれば上述の通り、逮捕には政治的宣伝効果が付き纏わず、よって誰を逮捕しても国策捜査の疑いをかけられる事はなかったはずだ。
 「疑われた側にも問題がある。」という発言は、容疑者には決して向けてはならないものだが、今これを私は公権力への助言として使用する。
「子謂公冶長 可妻也 雖在縲紲之中 非其罪也 以其子妻之」(『論語』公冶長篇より)