駄本の著者達を大して憎んでいない。

 当ブログでは、今まで数冊の駄本を紹介してきた。ただし実は私には、そうした本の書き手に対する憎しみはほとんどないのである。ある意味では彼等も被害者であるとすら思っている。
 駄本の著者の側は、稀に意図的に愚かさを装っていると思われる場合も見受けられるが(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20090121/1232503768)、基本的には罪悪感はないだろう。
 人間に賢愚の差異があるのは当然であり、愚かな人を愚かだと非難しても始まらない。そうした愚かな人に、「貴方は愚かではありませんよ。貴方の本を出版してあげますよ。そうすれば貴方も儲かりますよ。」と甘言を弄して近付いていく業者こそ問題である。
 出版社の社員なら原稿の良し悪しの区別ぐらいはつくだろうに、たとえ内容が劣悪でも売れさえすればそれでいいという理由で、「この部分は変ですよ。」といった助言を行わずに、彼等は駄本を出版し続けているのである。
 著者達の中にはその後の人生で全く進歩しないものもいるかもしれないが、もしも知能が向上または回復した場合はどうなるだろうか?自分の恥ずべき足跡が国立国会図書館に半永久的に保存されているのである。顔から火が出るほど恥ずかしく思い、「何故あの時、出版社は忠告をしてくれなかったのだ!」という怨恨を抱くであろう。
 では出版社に改心して欲しいかと言うと、それは無理な話であると判っている。この資本主義の世界で商売を忘れれば、たちまち倒産してしまうであろう。
 ならばせめて出版産業だけでも封建主義か社会主義の制圧下におけば良いのかと言うと、これは少なくとも現時点では副作用の方が大きい可能性が高い。
 してみると、消費者の方で賢くなるしか道はなさそうである。インテリ向けの出版がニッチでなくなれば、大手の出版社こそ挙ってブランドを大切にし始めるであろう。
 これは、騙されて駄本を書いている犠牲者や心ならずも汚い仕事をさせられている出版社の社員を救う事にもなる。
 そうした傾向が少しでも強まる一助にでもなれば良いという思いから、私は駄本を批判的に紹介し続けるつもりである。
 一昔前はこうした理想のために戦おうにも、結局は利害のしがらみが複雑に絡んだ既存の出版産業を利用せざるを得なかったと思われる。だが今は違う。インターネットを使い、読書家は自由に連絡を取り合えるのである。