駄本を出版する事の社会的意義

 ラッダイト運動についてはかなり否定的に学んだ記憶がある。教師は、最初の労働運動である事と、機械なんか壊しても豊かになれないと実証した事という、二点だけを評価していた。
 しかし私は、「俺達は機械なんか壊しても豊かになれない事が判らない。壊されたくなかったら機械の利点を説明してくれ。そしてもし説明しても通じないと言うのなら、教育を与えてくれれば良いじゃないか!」という意味の漠たる怒りを権力者に伝達したという意義を忘れてはならないと思うのである。
 以前私は、「駄本の著者達は被害者でもあり、出版社は加害者だが事情を考慮すれば仕方が無い事だ。」という意見を表明した(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20090415/1239743533)。最近の私は更に一歩進んで、駄本の出版に社会的意義を二つも認めている。
 第一は、以前書いた三流運動家擁護論と同じく(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20091218/1261062735)、愚者の心を慰撫する事である。
 なおこれは、この夏に実際に「A」さんみたいな人から「B」さんとして学んだ観点である。今ここで改めて御礼申し上げたい。
 第二は、前述のラッダイト運動肯定論と同じく、慰撫される愚者の存在とその人数とを世に知らしめる事である。
 駄本が広範囲に流通する度にファシズムの脅威が叫ばれるが、それが必ずしも杞憂ではないと評価し得るからこそ、大衆がどの様な鬱積を抱えているかを未然に暴露した各駄本の功績は高いと思うのである。
 かつて私は、定方晟著『憎悪の宗教(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20080416/1208283688)』(洋泉社・2005)を購入してしまった悔悟を主たる切っ掛けとして、ネット上での駄本告発を思い立った。
 当初は、趣味と出版業界の浄化への微々たる貢献とを主目的にしていた。
 だが駄本のこうした社会的意義を認めてからは、愚者への教育とインテリへの危機意識の喚起とを主目的にしていきたいと思っている。