自分達で教育機関を創ってしまうという学生運動も在って良いと思う。

 大学から退学処分を受けた学生達が、「学生こそキャンパスの主役であるべき!」みたいな意味のスローガンを使って処分の撤回を目指す抵抗運動をしているのを、最近見かけた。
 本稿はその戦い方を否定するのが目的という訳ではない。ただ、「大学はもう一度私を学生として認めよ!」という学生の他に、「大学が自分達を必要としないのなら、自分達が新しい大学を作ってみせる!」と言う学生もまたいて良いのではないかと思ったのが、執筆の切っ掛けである。そろそろ既存の大学の枠組みの中での改革を目指すという手法を採らない学生運動も登場して良いのではないかと、私は思っている。
 『知の技法』(東京大学出版会・1994)では、義江彰夫教授(当時)が、既存の権威に依存した改革という路線に落ち着いた1968年頃の学生運動と、王朝交代を目指さなかった日本史上の諸々の反逆とに、共通性を見出していた。
 これを初めて読んだ頃の私は、妥協を勝ち取るための反乱が日本の伝統なのだろうと、単純に思い込んでいた。
 しかし、本郷和人著『武士から王へ』(筑摩書房・2007)で、武士が徐々に統治というものの本質を学んで武家政権の自立性を高めていった歴史を学んでからは、日本の学生運動でも大学の外に出る手法が模索されても良いのではないかと思い始めたのである。
 実際日本でも、社会人の世界では、会社による待遇が気に入らない場合には、「交渉」と「独立」という二つの手法が存在している。
 やや理想論に聞こえるかもしれないが、日本の風土においても、学生の「独立」は決して不可能な話ではないのではあるまいかと、今では思っている。
 クリストフ=シャルル/ジャック=ヴェルジェ著『大学の歴史』(白水社・2009)によれば、元々「大学」という組織の原型は、学生達が「権威ある教師のもとに集うことをやめ、出身地ごとに集結し「ナチオ(ネーション=同郷会)」と呼ばれるグループを結成」した事に始まる。
 日本の大学は完成品としての制度を国家・偉人が輸入して創設したものであるから、既存の大学で学生が自ら進んで教えを請いに来た新参者と見做されてしまうのも、ある程度は仕方の無い事である。
 だからこそ大学の原点を見つめ直し、既存の教育機関を是としない勉学の徒が結集して、学生自治会が最高権力を持ち教職員はその臨時の雇われ人に過ぎないような機関を新たに創設するという形式の運動が、そろそろ出てきても良いのではあるまいか?
 勿論学生の財力や経験からいって、初期は小規模に甘んじなければならないだろうし、失敗も多いだろう。「特待生」の名目で招いた老人の指導を受けるといった工夫(腐敗?)も必要かもしれない。
 だが、今でこそ日本を代表する大学の一つと見做されている慶應義塾とて小さな組織から始まったのであり、試行錯誤を経てここまで来たのである。人材の育成において既存の教育機関を超える成果を達成し続ければ、必ず組織は大きくなれるだろう。
 リスクを認識した上で、努力と工夫でそれを乗り越えて日本の教育史に名を残すまでになってやろうという野心を持った創業者が、学生の運動家の中から登場する日を、私は夢見ている。
「衞公孫朝問於子貢曰 仲尼焉學 子貢曰 文武之道 未墜於地 在人 賢者識其大者 不賢者識其小者 莫不有文武之道焉 夫子焉不學 而亦何常師之有」(『論語』子張篇より)

知の技法: 東京大学教養学部「基礎演習」テキスト

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武士から王へ―お上の物語 (ちくま新書)

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大学の歴史 (文庫クセジュ)

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