「反戦責任」は、何故か追及されない。(2)

 第二次世界大戦中に官憲の眼を潜り抜けて反戦運動を展開した組織や個人をを讃える声は大きい。
 そして、ある組織・個人の反戦運動を讃えないという立場を採る人の場合でも、称賛を黙止するか、その運動の効果が低かったり逆効果であったりした事を指摘する場合がほとんどであり、「第二次世界大戦中の日本における反戦運動は、違法なものも含めて、原則として正義だ。」という前提自体に挑戦した文章というのは、私は今まで読んだ事がない。少しは存在するのかもしれないが、皆無に近いという事実認識の点ではおそらく反論は無いだろう。
 これは考えてみれば不思議な事である。日本には一定数の大東亜戦争肯定論者がいる筈である。旧敵国の立場や行動を批判する文章は、実際にしばしば見かける。しかるに、そうした文章の書き手の内の誰もが、一般に敵よりも憎まれる事の多い裏切り者の方は批判しないのは、一体何故なのであろうか?
 例えば、「A党の後方撹乱のせいで、本来以上の大敗を喫した。彼等がいなければ、もう少し善戦出来たであろうから、講和条約の内容はもう少し日本に有利な内容になっていた筈だ。現在A党は日本国内における米兵の犯罪を強く批判しているが、これはマッチポンプである。」といった声が、何故聞こえてこないのだろうか?
 ある対象Xを批判する個々人に対して個別に「Xを批判するならYもちゃんと批判しないとおかしい。」と迫るのは愚かだと私も思う。しかしそんな私でも、Xへの批判者がYへの批判をしないでいるという事例ばかりが集まってくると、次第にその傾向に何かしらの理由があるのだろうと思ってしまうし、その理由が判らない場合は解明したくなってしまう。