下諏訪市巡り

 松本市を観て回った日(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20111126/1322312949)の翌日、下諏訪市を訪れました。
 まずは諏訪大社の秋宮(http://suwataisha.or.jp/simosya/akimiya/)を目指しました。

 祭神は建御名方神です。大国主が降伏する際に、一人だけ独立論を唱えて高天原に立ち向かった後、敗れて諏訪に落ち延びたと伝えられています。
 長年私は、近畿を突っ切って逃走するというルートを想像していたので、「当時出雲に降伏を迫った大和の一族は、まだ九州が本拠地だったのかなぁ?」と漠然と考えていました。

 しかしこの日、ここで建御名方神の母親が高志沼河比売であるという説を読んで、「抵抗派の逃走ルートとは、海路を利用してまず高志(越)=北陸に行き、しかる後に諏訪に駐屯するというものだったのではないか?」という考えに至りました。
 そして出雲と高志の関係についても、色々と妄想を深めました。次の三段落は私の妄想です。
 出雲族は傭兵組織である素戔嗚を活用したレジスタンスにより、高志の出雲総督である八岐大蛇を破ったものの、それは所詮待遇の改善を勝ち取ったに過ぎなかった。
 そのため大和族による国譲りの勧告も、出雲族にとっては支配者の変更をもたらすものに過ぎず、苦渋の選択という程のものではなかった。
 しかし支配層である高志族にとっては大問題であった。高志系の人々は被支配者となるのを潔しとせず、高志の血を引く建御名方を中心に正統出雲王朝を立てて抵抗するも敗北し、本国に逃げて行ったのである・・・。

 さて、続いて春宮(http://suwataisha.or.jp/simosya/harumiya/index.htm)を目指しました。

 これは途中で見つけた永六輔氏による綿の湯の碑。

 青塚古墳です。写真では判り難いのですが、前方後円墳になっていました。

 春宮に着きました。この境内から直接「万治の石仏」に行けます。
 万治の石仏は、阿弥陀如来大日如来を一体のものとする「同体異仏」の考えに基づいているそうです。これは浄土宗でありながら珍しく即身成仏を説いた弾誓上人の思想の影響だとか書いていました。

 左胸にハーケンクロイツが確認出来ます。この石仏への祈り方は、時計回りに三遍回るという過程が含まれていました。如何なる謂れがあるのか知りませんが、近世に作られたにしては、設定も顔も体型も紋章も拝礼法も、非常に原始の遺風を保っています。岡本太郎が絶賛したそうですが、それも当然という気がします。

 時機を逸したと思っていましたが、石仏の近くにて紅葉を楽しめました。
 最後に諏訪湖を目指しました。春宮とは駅を挟んで反対側だったので、かなり歩きました。


 諏訪大社は、下社である春宮と秋宮の他に、上社として本宮と前宮があります。しかし残念な事に寄る時間が無く、そのまま帰宅しました。いつの日にか上諏訪市で降りて寄ってみたいと思います。