身体変形罰は、周囲に対してこそ残酷である。――峯岸みなみ氏の丸刈りは本人だけの人権問題ではない。

 世の中には「身体刑」というカテゴリーがあるが、この範疇には単に痛みを与える刑と外見を変えてしまう刑とそれら両者を兼ね備えた刑とが混在している。よって本稿では「身体変形罰」という概念を用意した。「刑」ではなく「罰」という文字を使ったのは、私的機関による準強制型の罰も広く包括して論じようと思ったからである。
 さて、身体変形罰は残酷なものであるが、生命罰や自由罰の残酷さとは趣きを異にする。というのは、身体変形罰は変形後の状態を罰以外の理由でもっている人への差別をもたらすからである。
 例えば、死刑囚や長期懲役囚個人に対して、「もし片腕を切り取る事に同意するなら自由にしてやる。」と権力が提案したとする。個々の囚人にとってはプラスにこそなれマイナスにはならない提案である。囚人にだけ着目したならば、これは恩恵である。
 しかしこれが制度化されたならば、他の理由で片腕を失った人には脅威である。個人的に知り合った相手になら「生まれつきだ。」とか「戦争における名誉の負傷だ。」とか説明も出来ようが、道行く人からは「犯罪者で、しかも死刑が怖かった臆病者!」と思われかねない。
 因みにこれと同様の理由で、自由罰も手法次第ではこの種の残酷さを伴う。江戸時代に行われた様な、「厳しい拘束はしないが、N年間A島に住む事を強制する!」といった刑罰が復活した場合、A島民としては二重の意味でたまったものではない。
 最近、AKB48峯岸みなみ氏が丸刈りをして謝罪をしたという事件が起きた。これが本人の自業自得か、それとも人権侵害かをめぐり、大いに論争が起きた。それはそれで確かに大切な議論であるとは思う。
 しかし私は上述の理由により、「これは峯岸氏らによる丸刈り差別ではないか?」という議論もなされるべきであったと思った次第である。