「頑張れ、橋下徹!維新の会の中で!」

 「今時珍しい」と長年言われ続けていたが、私はずっと橋下徹氏にほとんど興味を持っていなかった。今年の春に大阪に行った際に「なにわの海の時空館」の貴重な復原船「浪華丸」の危機を知り、それでやっと少しだけ嫌いになっただけであった。
 そして昨日薬局で『週刊文春』のゴールデンウィーク特大号(http://shukan.bunshun.jp/articles/-/2637)の宮崎哲弥氏の「時々砲弾」を読んだ所、維新の会内部で橋下氏が太陽の党から来た老人達に対し、憲法は国民に義務を課すためのものではなく国家権力を縛るためのものだと教え諭している、という話が出てきた。
 流石弁護士だけあって、近代憲法について最低限の常識は持っている様である。これで私の中で橋下氏の評価が多少向上した。
 日本では概ねヨーロッパ諸国と同じく、「自由」という価値と「民主」という価値を並べた時、自由が右で民主が左という事になっている。政党の名前と立ち位置の関係も、一応そうなっている。だが一方で「リベラル」が左と見做される場合もある。この珍妙な現象を多くの論者は単にアメリカの用法が混入したせいであると見做しているが、私はそんなに単純な話ではないと思っている。日本の「保守派」に数多くの「反動派」が潜入しているため、「自由」という価値が未だに革新的要素を残しているのも原因の一つであると思っている。
 自由経済体制を保守しようと志している面々には、今直ぐ封建主義者達と手を切れとは言わないまでも、せめて彼等との連帯が反社会主義のための一時的な同床異夢に過ぎないという自覚を持ち続けて欲しいものである。そしてあわよくば水面下で彼等を抑制し続けて欲しいとも思っている。
 さて、私は北朝鮮シンパではないが、だからこそ北朝鮮の上層部の中で頭の固い元老達を掣肘出来る「若手」であった故金正日には一定の期待をしていたし、金正恩氏には更に一層の期待をしている。
 だから「頑張れ、金正恩!」と私は叫ぶ。勿論「頑張って日本に核ミサイルを撃て!」という意味ではない。「北朝鮮の中で、老害を相手に頑張れ!」という意味である。
 同様の意味で、私は維新の会の支持者ではないが、これからはこう叫ぶ事にした。「頑張れ、橋下徹!維新の会の中で!」