小異を捨てずに大同内部で相互批判し、大いに敵を利せ。それは敵を変容させる。

 以前、「小異を捨てて大同につけ」論を批判する記事を書いた(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20140114/1389645511)。
 当時の私が掲げた論拠は、「ある集団を恣意的に「大同」呼ばわりしても、それを包括する大集団や別の枠組みによる異集団が観念出来る以上、所詮あらゆる全体主義は欺瞞だ」というものであった。今読み返してもその通りだと思うのだが、こういう抽象度の高い論法だけでは納得のいかない人も多いと思う。
 だが私は最近「小異を捨てない」事がもたらす利益をもう一つ思いついたので、ここで発表しようと思う。
 それは、題名にも書いた通りなのだが、「自分の思想が敵に利用される時とは、敵を洗脳した時でもある」という事である。
 例えば、ある国の政治思想が大きく分けて「保守」と「革新」に二分出来るとする。そして選挙違反を憎む気持ちは革新派の方が強かったとする。そんな時、革新派内の少数派Bが多数派Aの些細な選挙違反を発見してしまったとする。
 この時、「小異を捨てて大同につこう」とBが考えてAの告発を見送った場合、世の中は何も変わらない。
 一方、BがAを告発し、保守派がそれを利用して猛烈な反Aキャンペーンをした場合、確かに「革新」の名目上の頭数は一時的に減るであろう。
 だが保守派の支配層が仮に本心では選挙違反が大好きでも、口先で「Aは良くない。何故なら選挙違反をしたからだ!」と叫べば、保守派に属する人々の頭に「選挙違反は良くない」という理念が刷り込まれていくであろう。以前別の記事(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20130706/1373041259)で提唱した、「肉付きの面」の理論である。結果として「保守派」の名目上の頭数が増えたとしても、その「保守派」は昨日の「保守派」とは別の何かへと変質しているのである。そうなると、その国は昨日の「革新派」が理想としていた世界に一歩近付いた事になる。
 つまり類似していながらもなお「小異」にこだわって相互に批判し合う集団は、相互に高め合って堕落を免れるのみならず、分断を画策してきた敵の思想まで自分達の側に引き寄せる事が出来るのである。