二世政治家を減らすための提案は、何故ほとんどが極論なのだろうか?

 「二世政治家を減らそう、あわよくば無くそう」という提案は、管見の限りではほぼ全て極論である。
 具体的には、「親が政治家であった人物から被選挙権を剥奪する」とか、或いは少し妥協した振りをして「親と同じ選挙区からは立候補させない」とか、そういったものばかりが目につく。
 私は極論は嫌いではないのだが、それはあくまで社会の一部分であるべきだと考えている。
 現状と極論との間には、凡人でもほんの少し頭を使えば様々な種類の提案を思いつけるはずだ。
 例えば、「「カンバン」の効果を減らすため、コンピューターがランダムで決定した数値でしか投票出来ないようにする」というのはいかがであろうか。「丹瀬井一郎元総理の息子の丹瀬井二郎で〜す! 丹瀬井二郎をよろしく〜。」ではなく、「丹瀬井一郎元総理の息子の丹瀬井二郎の今回の投票番号は2126で〜す。投票用紙には2126とご記入下さ〜い。」と叫ばなければならなくなるとすれば、二世政治家もかなり一生懸命選挙活動をしなければならなくなるであろうから、かなり平等となる。
 仮に「いや、二世にのみ不利益を課してこそ真の平等だ」という過激な主張を前提にしても、「二世は供託金二倍」だの「ポスターを貼っていい箇所は通常の半分」だのと、やはり現状と極論との間には無数の提案を思いつけるであろう。
 何故そうした主張がほとんど出てこないのだろうか?
 私が思いついた仮説は、「敢えて採用され難い極論を唱える事で、一部の不満屋からリスク無しで喝采を浴びようとしている」というものである。
 以前、「自由民主党が過激な改憲案を主張したのは、実は第九条や第九十六条すら本気で変えようとしていないからだろう」という分析をした事がある(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20121210/1355138673)。
 この「二世政治家を減らすための提案のほとんどは極論」という問題も、実はそれと同じ構造から生まれたのではなかろうか。