統計を無視して何かを怖がる態度は三流。しかし統計を根拠に彼等を馬鹿にするだけではまだまだ二流。

 「飛行機事故で死ぬ確率は、X事故で死ぬ確率よりもずっと低いですよ。だからそんなに飛行機だけ怖がる態度は愚かですよ」という発言を、幼少期に聞いた記憶がある。その頃の私はその論法で完全に納得していた。
 その後の人生でも、「米兵が犯罪をする確率と日本人が犯罪をする確率」とか「精神障害者が犯罪をする確率と健常者が犯罪をする確率」とか「原子力発電所で減る寿命の期待値と火力発電所で減る寿命の期待値」とか、同工異曲の発言を何度も聞かされた。
 中には不正確な統計に基くデマもあっただろうが、正確な統計に基いてそういう発言をしている人は、確かにイメージだけで何かを怖がっている人よりも、幾分か賢いのであろう。それは今でも認めている。
 しかし徐々にある種の違和感を感じるようになってきた。それは、そうした統計愛好家の発言の影響力に限界がある事に気付いたからである。いくら「〜はそんなに危険ではありません」と統計愛好家が叫んでも、それに対抗するデータを示さずにひたすら怖がり続ける連中が多かったのである。
 一旦原点に戻って、飛行機事故について考えてみた。
 そして、飛行機事故を怖れ続ける人が怖れているのが、「死」そのものだけではないのではないかという仮説に至った。
 日本人の多数派の宗教観念においては、骨の埋葬が重要となる。科学的に考えれば骨に意識は無いし、仏教や神道ですらそのような主張を強くしていたりはしない。だが日本人の多くは、骨の埋葬にかなりこだわりを持っている。
 こうして、飛行機事故を怖れる人の中には、実は死に加えて死体の散逸を心配している者も多いのではないか、と考えるようになった。それならば確率を軽視した恐怖感にも説明がつく。
 米兵や精神障害者の犯罪を怖れている人も、国家が仇討をしてくれない事を怖れているのかもしれない。現代の刑法は復讐が目的のシステムではないが、そこに結果的な復讐を期待している民衆が多いのはまぎれもない事実である。
 かくいう私も、「十万円の損害を受けたが、犯人は刑務所に行った」というのと「九万円の損害を受けたが、犯人は裁かれなかった」というのでは、前者を体験する方がマシと感じてしまう人間の一員である。普段庶民感情を馬鹿にしている期待値愛好家や近代法の理念の唱道者の中にも、実は一万円程度の差異ならば復讐心を満たしたがる者が一定数いるのではなかろうか?
 こうした問題について真に一流と言える態度とは、自分自身は統計に基いて「正しく怖れる」と同時に、「不正に怖れている」人の気持ちも汲み取り、状況に応じて適切な説得をしたり、そもそも説得を諦めたりするという態度であろう。