「小異を捨てて大同につけ」論の行き着く先を考えてみた。――敵の敵の敵は敵

 年末から澤藤統一郎氏のブログ(http://article9.jp/wordpress/)を拝読している。切っ掛けは「宇都宮君おやめなさい」というカテゴリーで纏められた連載との遭遇であった。
 この連載では、前回の都知事選での宇都宮健児氏の選挙活動における法律上・道徳上の様々な問題点が指摘されている。
 その中には、素人が違法性の意識が無いままに犯してしまった可能性が高い行為も含まれており、近々友人の所謂「手作り選挙」に馳せ参じる可能性が高い身としては、冷や汗をかきながら読ませて頂いている。
 澤藤氏の思想は一般に「革新」に分類され、本人もそう自負しているようなので、この活動に対しては「利敵行為ではないか」という指摘も浴びせられたらしい(参照→http://article9.jp/wordpress/?p=1870)。これはこれで一つの見識ではあり、澤藤氏も「正しいからこそ厄介」な見解であるとして一定の敬意を払っている。
 ところが、「週刊新潮」2014年1月16日号は「「宇都宮健児日弁連前会長の都知事選立候補に冷水を浴びせた友人」と題して、宇都宮氏側に立った記事を書いた。
 澤藤氏の行為が本当に革新にとっての「利敵」ならば、革新の敵である保守と親和性の高い週刊新潮にとっては歓迎すべき行為であり、遠交近攻論から考えても「敵の敵」へこっそりと兵糧を贈っても良い筈である。「これはどうした事だろうか?」と思い、考察してみた。
 出た結論は、「より「高所」から見れば、澤藤氏は保守にとって敵の敵の敵だった」というものである。
 確かに宇都宮選対という狭い世界に限定すれば、澤藤氏は小異に拘泥して大同の大義を見失った人物だという主張は、それなりに一理ある見解かもしれない。しかしこの論法が許されるのならば、宇都宮健児氏は民主党に絶対的な服従をせずに革新票を割るという、利敵行為を犯していることになる。
 よって遠交近攻論においては、次の都知事選における宇都宮氏の立場は、保守派にとって「近」ではなく「遠」であったのであろう。「遠」への支援活動の一環として、澤藤氏は週刊新潮に叩かれてしまったものと思われる。
 この件に類似した構造は、世の中に幾らでもある。例えば、党内で厳しい「民主集中制」を敷いている日本共産党が、党全体としては世間の左派の多数派から「事実上の自民党応援団」として指弾されるという図式である。そしてその左派全体に対しても、「敵国が台頭しているというこの大切な時期に、日本人同士で何故いがみ合おうとするのか!」という声が毎日浴びせられている。勿論、そういう声を浴びせている人も、背後から「西側諸国」だの「アジアの国々」だのといった恣意的な境界線内部の団結を説く声を浴びせられている。
 このように「集団」というものは重層的なものであるから、「小異を捨てろ」論を徹底する事はほぼ不可能である。結局は重層的な集合の中から自分の好きなものを一つ取り出してそれのみを絶対化し、「自分(達)の造反は理の有る造反、自分(達)への造反は理の無い造反」と身勝手な主張をする事になる。
 その意味で「全体主義」には常に欺瞞が付き纏うのである。
 「だからいっその事、かけがえのない個性を持った諸々の個々人を尊重しませんか?」というのが、私の平凡な提案である。
(類似記事→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20120131/1327954706