駆込乗車資格試験

 一般に「とくすべからず!」という規範は、法律が絡んでくると途端に非難の度合いが厳密に区分けされるのだが、道徳の段階で留まっているとあまり深くは考察されない。
 例えば駆け込み乗車だが、これは確かにしないに越した事はないのだが、その一言で済ませてしまうと、より非難に値するものとさして非難に値しないものとの差異を無視してしまう事になる。その結果、本当に危険な駆け込み乗車への非難の効力が相対的に弱まってしまうのである。
 私の言う「本当に危険な駆け込み乗車」とは、駆け込みに成功した瞬間に安心してしまうものを指す。「こんな悪い事をするのは私ぐらいのものだろう。」という妙な罪悪感でもあるのか、背後を確認せず、車内がどんなに空いていても入り口付近で立ち止まってしまう人が多いのである。当然、次の駆け込み客と衝突する場合が多い。本人は自分の安心感の危険性に全く気付いていないのだが、車内から顛末を観察していた者には因果関係の図式が良く判る。
 この文を読んだ方は、自分が体は急いでいても脳を落ち着かせていられる人間であるかを、今一度見つめなおして欲しい。そして「自分には無理だな。」と思ったら、たとえ自分以外の大勢の人が駆け込み乗車をしている姿がどんなに羨ましくても、駆け込み乗車から潔く足を洗って欲しい。
 「他人がやっているから自分もやっていい。」という発言は、しばしば幼稚という烙印を押されるが、私はこの文言自体は、規則を機械的に理解する人よりも精神年齢の高い人が社会的慣習も加味して判断を下している発言と把握出来ると思う。本当に幼いのは、「自分」と「他人」の能力の差を把握せず、機械的に一個の人間同士と見做してから、先の発言を悪用する連中なのである。
「君子無終食之間違仁 造次必於是 顛沛必於是」(『論語』里仁篇より)