デュスマスとゲスタスも釈放の候補にしていればどうなっていたか?

 熱狂した群衆がイエスを処刑する事をピラトに要請した時、イエスの処刑を躊躇うピラト総督は、囚人を一人釈放する慣習を利用する事を思いつき、「バラバとイエスのどちらを釈放して欲しいか?」と聞いた(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20101231/1293779382)。しかし熱狂した群衆は「バラバ!」と答えてしまった。結果、イエスは二人の犯罪者と一緒に処刑された。
 四福音書の記述を総合すると、大体上記の様な筋書きになる。因みに二人の死刑囚の名は、外典の「ニコデモ福音書」によれば、「デュスマス」と「ゲスタス」とされる。本記事では仮にこれらを呼称として採用する。
 さてバラバ及び二人の死刑囚の罪については、福音書によって相違がある。図にまとめてみた。

 事件の詳細は不明なので軽々しい事は言えないが、それでも二人の罪がバラバの罪と比較して目立って重いとは思えない。寧ろ軽い可能性も高い。バラバに釈放の余地があるのなら、この連中にも機会が与えられてしかるべきであろうというのが、大方の判断だろう。
 何故ピラトはそれでもバラバにだけ機会を与えたのだろうか?
 おそらくは、最低最悪の囚人との二者択一ならば、イエスが釈放者として選ばれる可能性が最高値になるという、単純な計算に基づいていたのであろう。単純に考えれば、確かに選択肢が増えれば増える程、そして選択肢に罪の軽いものが含まれれば含まれる程、イエスの釈放の可能性は低下する。
 相手が極めて公正かつ冷静な裁判官であれば、この単純計算も成り立つだろう。しかしA氏を殺したいと熱狂的に願っている群衆に、「AとB、どちらを助ける?」と聞いたら、B氏が誰であれ群衆は「B!」と答えるのは当然である。その意味で、この時のピラトの言動は浅知恵に基いていたと言えよう。
 ここでもしピラトが、「デュスマス・ゲスタス・イエス・バラバの四人の中から、諸君の多数決に従って一人を釈放する。しっかり考えて投票してくれ。」と言っていたらどうだったろう?この場合、群衆を構成していた連中は個々人に戻って、各々なりのやり方で明日からの町の治安についての計算を始めるであろう。そして「イエス以外の三名の内で、一番安全な奴は・・・。」と頭を冷やして考え始めた連中の中から、「案外イエスが野放しになる方が一番マシかもしれないぞ・・・。」と考え直す者も出てきたかもしれない。
 この方法は相手が個人の場合でもある程度応用が効く。交渉の際、相手が熱くなっていて功利計算が出来そうになく、しかも相手がしっかり計算してくれた方が自分にとっても良い場合には、敢えて熱狂中の相手にとって魅力的な選択肢を複数混ぜる事で、相手の熱狂脳を計算脳に変化させてやれば良いのである。

小型新約聖書 詩編つき - 新共同訳

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聖書外典偽典〈第6巻〉新約外典 (1976年)

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