『虞禮寧子』虚襤褸子篇(空無章)

 アダムが農耕に励んでいると、かつて木の実を食えと唆した蛇がやってきました。アダムは怒って耕耘機を用いて蛇を切り刻もうと迫りました。蛇は驚いて聞きました。
「何故僕を切り刻もうとするんだい?」
「貴様によって私は知恵を得た。そのせいで楽園を追放され、今こうして苦しんでいる。だから腹癒せに復讐をしようとしているのさ。」
「劇的に知能が向上し、ものの見方まで変わったのなら、それはもう過去の人格の死と新たな人格の誕生として理解した方が現実に近くはないかい?そう考えると、寧ろ僕は君の父だよ。」
「屁理屈を捏ねるな。私には愚かだった頃の自分との連続性の確信があるんだ。」
「それが本当なら、実は良い話があるんだ。あの木の根を煎じて飲んでみたまえ。知能は失われ、無限の快楽が復活する。これで主観的には楽園を回復した事になる。」
「うーん。それはちょっと躊躇するなぁ。何だかそれは、現在の人格の死と新たな人格の誕生を現実的には意味している気がするぞ。」
「随分身勝手な理屈だね。もう忘れている様だが、遥か昔にも同じ会話が無限回交わされているのだ。そしてその度毎に、結局君は木の根の誘惑に負けたのさ。今後も君は根と実の輪を永遠に廻り続ける。この輪を試みに図示してやろう。これがウロボロスだ。」
 蛇はそう言うと、自分の尻尾をくわえて見せました。
「ならばその輪廻から、今度こそ解脱してやる。」
 アダムは通りすがりのジョン=ステュアート=ミルに命じて、未来の自分が決して木の根を煎じて飲んだりしないための警告文を書かせました。
「まともな人間なら、十全なる動物的快楽と引き換えに動物になるという選択を拒むであろう。覚醒剤やめますか?人間やめますか?」