憲法における国民の義務規定や私人間適用に、積極的意味を見出したい。

 現在の世界の憲法の潮流では、デモクラシーの隆盛に伴い、権力者のみを縛る内容のものが重んじられてきている。この流れを絶対視する人の間では、日本国憲法における国民の義務規定や私人間適用規定は評判が悪い。
 しかし私はこれらの規定が好きであり、積極的意味を見出したいと思っている。
 まず憲法15条4項についてだが、これについては以前にも称揚する記事を書いた(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20081109/1226163968http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20090122/1232627560)。もしも「公的にも私的にも」の部分が「公的には」だったとすれば、権力者には私的な走狗を使って選挙民の選択の責任を問う事が許されてしまう。それをすら許さない強力な規定だと解すれば、寧ろ国民主権の理念を強化する方向に働くだろう。この規定がなければ、同じ主権者と言っても帝国憲法第3条によって無答責を定められていたかつての天皇の絶対性に遠く及ばない事になってしまう。毎度毎度自分が狭い選択肢の中から選んだ公務員の悪事・過失・無能の連帯責任を取らされるのであれば、せいぜい「主権者見習い」程度の存在になってしまう。
 私がこの規定に次いで好きなのは、第26条2項の、「保護する子女に普通教育を受けさせる義務」規定である。この規定は、国民が賢くなるのを可能な限り防ごうと考えた権力者が「無償教育のサービスは提供したのですが、それを利用しない家庭が多いのです。自由を重んじているわが国では、それを処罰するのは難しいのですよ。」という論法を駆使するのを、予め防いでいると言える。
 権利というものは、原則として行使しない自由も保障されるべきだと私は思っている。だが権利を行使するかしないかについての適切な判断力を持っていてこそ、行使しない自由の享受が人をますます自由にする。判断力がなければ、権利を行使しない自由とは、単にミスを誘発する罠に過ぎない。権利を行使しない自由を原則として愛するが故に、私は教育については例外的に義務でもあり続ける事を望んでいる。
 その意味で、学校に来ない子にも中学校の卒業証書を押し付け、統計上は「文盲ではない」事にしてしまい、いざ将来その子が発奮して公立の夜間中学に通おうとすると、「貴方は卒業証書を受け取っているので、このサービスを享受する権利がありません。」と門前払いをしてしまう現状は、到底是認出来ない。