「死刑は野蛮」という言い回しの副作用について

 日本の死刑廃止論者の一部には「死刑は野蛮」と主張する人々がいる。
 世の中には野蛮人呼ばわりされると酷く傷つく人が大勢いるので、そういう人々に刺激を与えるという一点に絞れば、この言い回しは劇的な効果を持つであろう。
 しかしこの言い回しには大きな副作用が含まれている。
 「死刑は野蛮」と或る日本人が他の日本人に言う姿は、一見自己批判的であり内部改革的である。しかしこの発言は、発言者の意図とは無関係に、死刑を存続させている他国を巻き添えにした批判になってしまうのである。
 この言い回しが流行った結果として日本国が死刑を廃止すれば、その後には死刑存続国の民を野蛮人として蔑む大勢の日本人が残るであろう。
 それどころか死刑を廃止する前から、人口一億人当たりの年間の死刑執行数が日本以上の国の民を、「この野蛮な日本人よりもっと野蛮な連中」と見做して蔑む風潮を促進しかねない。
 明治期に流行した「欧を貴しと為し、日本之に次ぎ、亜を軽しと為す」とでも表現すべき屈折したナショナリズムが、この言い回しのせいで再び勃興する可能性があると、私は考えている。
 この副作用を自覚した上で、「日本人が他の死刑存置国をより蔑視するようになるという不利益は既に十分考慮したが、比較衡量の結果、やはりどちらかと言えば我々の目指す「善」に資すると判断し、野蛮と文明という対立軸を採用する事にした!」だの「そもそも現在以上に北朝鮮を馬鹿にしたいから俺様はこうして頑張っているのだ!」だのと言い返せる人については、それはそれで本人の自由なので私としては別に止める気はない。そういう人を煽るような記事を以前私自身が書いた事もある(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20090214/1234596032)。
 本日の記事は、この副作用に無自覚な人に、より高度な判断を行って貰うための材料として書いた。