西暦2019年版『どろろ』が描いたもの

 西暦2019年、突如としておよそ半世紀ぶりに『どろろ』がアニメ化された。

 これが昨晩完結したので、その感想などを書いておく。

 原作では悪役として自分の利益のために息子の体の大半を鬼神に捧げた醍醐景光であったが、本作ではこの契約の見返りが民の利益に改変されていた。そして実際に彼の領地は豊かになり、領民にも慕われる存在となっていた。

 「身勝手な民衆」が登場する点では原作と同じである。しかし彼らは、原作では自分が助けられても百鬼丸を異形の存在として排斥するという意味での「身勝手」な役だったのが、幾ばくかの罪悪感を持ちつつも百鬼丸が自分たちの利益のために鬼神の犠牲になればいいと考える意味での「身勝手」な役へと変更されていた。

 原作至上主義者からの支持という目先の利益を捨ててまで、一体なぜこのような改変を行ったのかについて考えた。

 原作の影響力を弱めたという消極的な理由としては、原作の連載当時のメッセージの意味が弱まったということもあろう。「米ソとその手先である小権力者に利用されている世界の民衆よ、立ち上がれ!」という時代ではなくなってきたということがある。

 新作で独自設定を作った積極的な理由としては、「サバイバルロッタリー」(臓器籤)の問題が現実化してきたことが挙げられよう。

 移植技術の向上により、「運の悪い一人に死んでもらって、臓器移植をして一人以上を救うべきか?」という問題が、単なる思考実験ではなくなってきた。世界中で臓器移植をしやすくするために「死」の定義を緩める傾向が高まってきている。

 50年前の世界では、民主的な国は少なく、数少ない「民主的な国」も今ほどは民主的ではなかった。また臓器移植も珍しかった。

 そんな世界で、身勝手な権力者に体の器官を奪われた者がそれを取り戻そうと努力する姿勢には絶対の正義があった。

 しかし今日の世界では、民主的に作られ民衆の切なる願いによって支持されている民主的権力が、運の悪い者から臓器を取り上げてより多くの人を救うようになった。

 この現代において、民衆を不幸にしてでも自分一個の肉体の完全性を取り戻そうとする百鬼丸は、果たして正義なのか。

 それを視聴者に考えさせる作品になっていた。

 この改変の善悪を評価する事は困難であるが、医者でもあり『ブラックジャック』で医療倫理の問題を考察し続けた手塚治虫に対しては、おそらく「善」であり、仮に「悪」だとしても「小悪」程度であると、私は信じる。

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