2×2=4 2+2=4

 昨日から引き続き、ザミャーチンの『われら』関連の話。
 『われら』では、「2×2=4」という式が人間から偶然を排除する事で自由を剥奪する管理主義の象徴として使用されていた。
 既視感があったので、先程「2×2=4」やそれに似た式が登場する手持ちの文献を揃えてみた。
 まずドストエフスキーの『地下室の手記』の主人公は、人間や倫理を自然科学に還元してしまう事を「2×2=4」に象徴させて反発していた。大体『われら』と同じ意味で使っているとみて良いだろう。
 これがオーウェルの『1984年』では一転して、「2+2=4」と言える自由こそ全ての自由の基礎として賞賛されている。
 同書の第3部第2章では、古の専制主義者の命令は“Thou shalt not(するな)”であり、全体主義者の命令は“Thou shalt(せよ)”であり、「我々」の命令は“Thou art(である)”であるという歴史観が、オブライエンによって開陳されている。彼は主人公を拷問し、四本の指が同時に五本の指でもある事を認めさせている。
 してみると、『われら』では全体主義の象徴だった数式が『1984年』ではついに自由の拠り所にまでなったのは、レーニン時代のソ連政治とスターリン時代のソ連政治との間の差異に、大きな原因があるのかもしれない。
 他に今直ぐ思い出せるものとしては、グロティウスの『戦争と平和の法』の第1巻の第1章にある、2×2=4が神によっても変えられないのと同じ様に自然法が不変だという見解が挙げられる。
 果たして単純な数式を自由または不自由の象徴として扱うというのは伝統的で一般的な手法なのか、非常に気になった。そして気になったものの、まさか古典と呼ばれる作品を全て丹念に読み尽くす訳にはいかない。そこで私はこうしてインターネットを活用する事にした。
m(_ _)m この問題に関して皆様が御存知の情報を、コメント欄に色々書き込んで下さい。
「面堂家地下軍団所属チの42号、通称死神。久々に見せてくれよう死神の舞。カーツ!カカカカカカカカ。ニニンが死神。あそれ、ニニンガシ!あ何だ、ニニンガシ!あどした、ニニンガシ!あこれ、ニニンガシ!あどんと、ニニンガシ!ちょいと、ニニンガシ!あそれ、ニニンガシ!あ、ニニンガシ!あ、ニニンガシ!アニン!アニン!アシッシッシー!アシー!」(TV版『うる星やつら』第84話「面堂家仮面ぶとう会」より)

われら (岩波文庫)

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地下室の手記 (新潮文庫)

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1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)