私が多大な影響を受けた本(3)――なだいなだ著『人間、この非人間的なもの』(筑摩書房・1972)

人間、この非人間的なもの (1972年)

人間、この非人間的なもの (1972年)

 最近、「あなたの思想に最も影響を与えた思想家は誰ですか?」と聞かれた。
 こういう質問は、社会的には逐語的に解釈して返答してはならない。実際には「あなたに一番近い思想の人物は誰ですか?」と聞きたがっている場合が多いからだ。だから相手が実際に望んでいるタイプの回答をしておいた。これが無難に生きる知恵である。
 だが帰宅して、思考実験を兼ねて、この質問を逐語的に解釈した上で誠実に自問自答してみようという気になった。
 「最も影響を与えた」というからには、今現在の自分と一番近い人物よりも、自分をより変化させた人物ということになる。
 非常に単純化して一次元的に語るならば、自分の思想の初期位置が100だったとして、思想的に200である人物A氏の著作の影響を受けて150にまで引き寄せられ、やがて思想的に150付近の人物群の著作ばかり愛読するようになったならば、「最も影響を与えた」のは現在愛読している連中ではなくA氏ということになるであろう。
 こういう基準で回答するように依頼すれば、御年配の保守主義者の人々の回答でも「マルクス」はかなり上位に来ると思われる。
 また話を「思想」に限っているので、思考の手法だけを学んだ相手というのは論外ということになる。そういうわけで私のいつもの回答である「呉智英」(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20081110/1226254139)は使えない。
 以上の思考過程を経て一時間位かけて最終的に出した結論は、「なだいなだ」氏であった。
 そしてその影響の経路は、『人間、この非人間的なもの』(筑摩書房・1972)であった。読書メモを見返すと、西暦2009年の春に読んでいたようだ。当時既に文庫化されていたらしいが、私は原則として本屋は古本屋にしか行かないということもあり、ハードカバーで読んでいた。
 この本から学んだ最大の事は、「人間的」という価値の称揚への懐疑である。
 これを通じて、これまで「非人間的」とされてきた人間の行為も、所詮は人間の行為だったという諦念を持てたのである。
 その翌年頃から、人文系の人間に向けた脳医学を集中的に学ぶ機会を得た。そして「自由意志」というものの大半が幻想に過ぎないということを学ばされた。
 これ以来、誰かの行為に「怒り」というものがあまりわいてこなくなった。
 それより少し前に、「サイコパスは恐怖の対象にすべきであって、怒りの対象にすべきではない。そんな暇があったら逃げろ。まして認知症の患者さんを怒るなんてとんでもない。」という真理を学んでいたのだが(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20110527/1306508354)、怒らない対象が徐々に全人類へと拡大していったのである。
 そして例外的に怒り続けていた相手に対しても、徐々にその感情が弱まっていったのである。
 ひょっとしたらこの精神状態は、なだいなだ氏が目指したり広めようとしたものとは、若干ずれているかもしれない。どちらかというと仏陀の主張に近い気がする。
 しかし本稿前半で定めた基準によれば、やはり「最も影響を与えた」のはなだいなだ氏であると思う。
 五年前の私は「私憤と公憤とを区別するための私の技法」という記事(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20111104/1320340115)を書いていたようだが、そもそもここ数年、区別しなければならないような「憤慨」という感情自体わいてこない。
 ただし数か月前に、夢の中で高等学校二年生に戻り、当時最も憤慨していた人物に出会った時、この憤慨という懐かしい感情がわいてきた。起きて理性が働き始めると、もうその相手にも全く憤慨していなかったのだが、人間の脳とは実に不思議なものである。
 
 余談になるが、この本の全てを称揚して世に広めるためにこの記事を書いたわけではない。だから欠点は欠点として告発しておきたいと思う。
 207ページでは、「小学校では、女の先生から便所に行ったらかならず手を洗いましょうと、きびしくしつけられます。」だの「男の子が小便をしたあとで手を洗わなくとも、特別に病気になる心配などないのです。」だのと、一々要らない所で性差を強調している。
 これは、古い本とはいえ眉をしかめざるを得なかった。