『クロッシング』を観て、「善意」についてあれこれ考えた。

 『クロッシング』は、脱北者とその家族を描いた映画である(参照→http://www.crossing-movie.jp/index.html)。本日の午前に私はこれを観てきた。
 まず、主人公親子の善意が裏目に出続けた事に気付いた。
 主人公は北朝鮮で育った、優しいが単純な男である。妻が病気になり、医者が北では容易に入手出来ない薬を指定すると、大した食料を家に残せないのに、薬を入手するためだけに家族を家に置いたまま一人で中国に渡ってしまう。この結果、妻は看取られないまま死んでしまう。
 主人公が深くものを考えられないのは北朝鮮で生まれ育ったからであり、感情の面では善意の塊として演じられているので、中々正面からは憎めないのだが、冷静に妻の死の因果関係を考察すると、この考えの足りない男の言動にはイライラさせられる。
 息子も息子で、「腫れ物には鼠の皮を貼ると良い。」という呪術的な治療法を鵜呑みにして、身近な人間を一人死なせてしまう。これは、特段の不自由も無く北朝鮮の学校に普通に通っていた頃のエピソードではなく、体制にも旅の同行者にも散々騙された後での出来事である。
 「少しは賢くなれ!君が愚かである事で困るのは君だけではないのだぞ!」と叱りたくなった。
 一家の再会を邪魔し続ける連中もまた、ある意味では善意の塊である。
 北朝鮮からの不法入国者を必死で取り締まる中国人警察官も、祖国のために懸命に職務をこなしているだけである。先進諸国からは不法入国者の輸出源と把握されている中国だが、局面によっては彼等と同じ悩みを抱えているのである。居座りたい人間の必死さや逮捕者を強制送還した時の国際的なイメージの失墜の度合いを勘案すれば、ひょっとしたらこの問題では中国こそ最大の被害国なのかもしれない。
 家族を北に残したままでの南への亡命を全く考えていなかった主人公を騙して、無理矢理亡命者に仕立て上げた韓国人達の行為も、一人でも多くの人間を救いたいという善意や、有名人の亡命が北の体制を少しでも揺るがせばそれだけ北の同胞を解放する日が早くなるだろうという善意の目論見からのものなのであろう。
 息子と合流するためにモンゴルにまで来た主人公を些細な理由から空港に拘束し続けたモンゴルの入管職員も、職務に熱心だったのだから誠実な人物である。
 中朝の国境や強制収容所の場面で登場する北朝鮮の軍人達すら、おそらくは彼等なりの愛国心を発露させて頑張っているのだろうと思われる。妊婦の腹を殴って強制的に堕胎させる様な仕事に、それ自体から快楽を得られる奇人が配属させられる確率はかなり低いであろうから。
 そしてそもそも北朝鮮という国家自体からして、金日成による善意の押し付けによって成立し維持されてきたという事にも思いが及んだ。
 「見えざる悪魔の手」とでも言うべきか、各人の無垢なる善意の総和としてこの世の悲劇が幾重にも深刻化していく事態は、観ていて実に物悲しいものがあった。
 この映画すら、北朝鮮の内情の詳細な描写故に、「あんな体制は許せないから、この私が如何なる手段を用いてでも朝鮮半島を解放してやる!」という若き日の金日成と同じ理想に燃えた人物を世界中に多数作り出し、悲劇を一層深めてしまう切っ掛けになる可能性を秘めている。