無用かもしれないし無用の用かもしれないし

 学生の諸団体が、毎日教室という教室に、大量のビラを配る。誰もビラに興味が無いから、誰も配るのを邪魔しない。配られたビラは、運が悪いと数分後に、運が良いと数時間後に、全て掃除のおじさんに回収されてしまう。
 ある専制主義国から来た私の知人が、そうした光景を「無駄」と評して、私に同意を求めた。私は、
「貴国と我が国では国体が違う。我が国の権力者は、反権力者の手に紙とインクが充分行き渡るように、最善を尽くす。反権力者は権力者を打倒するため、必死で紙に文言を書き込む。念のため言っておくが、マジナイの文言ではないぞ。そしてその紙は危険なので直ぐに回収されて焼却される。確かに二酸化炭素は排出されるが、貴国の出身者の大半には到底理解出来ない、そして日本でも理解している人の少ない、ある種の作用によって、世の中は安定する。貴国にはこの種の儀礼がないので、毎日暴動だの械闘だのが起きているのだ。」
と答えかけたが、結局は黙った。
“There was, as Squealer was never tired of explaining, endless work in the supervision and organisation of the farm. Much of this work was of a kind that the other animals were too ignorant to understand. For example, Squealer told them that the pigs had to expend enormous labours every day upon mysterious things called "files," "reports," "minutes," and "memoranda." These were large sheets of paper which had to be closely covered with writing, and as soon as they were so covered, they were burnt in the furnace. This was of the highest importance for the welfare of the farm, Squealer said.”(ジョージ=オーウェル著『動物農場』第十章より)
 
 さて、小泉改革事業仕分けでは、多くの「無用の用」が、単なる「無用」と混淆したままに潰されてしまったのではないかと思われる。
 しかし、何が単なる浪費で、何が有益な浪費であるのかを見抜くのは、実に難しい。仮に見抜けても、証明して他人を納得させるのは、もっと難しい。
 そしてそういう事を見抜いたり証明したりできる天才が、膨大な時間をその作業に費やす事こそ、最大の浪費かもしれない。
 賢くない人が自分の脳の限界を弁えて、そして賢い人が自分の時間を有効に使うために、大鉈を振るう改革をパッケージごと支持しておくのは、それなりに合理的な選択であると言えるかもしれない。
「子貢欲去告朔之餼羊 子曰 賜也 女愛其羊 我愛其禮」(『論語』八佾篇より)