人権は、享受し得る人から先に享受して欲しい

 『竜馬がゆく』(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20100702/1278002026)で一番面白かったのは、竜馬が日本人を全て大名にしてしまおうという目標を持っていたという設定である。
 並の近代化論者は、庶民が絶対多数であるという印象に引き摺られて、人を全て庶民にしてしまおうという発想しか持てない。司馬が人権の歴史を学んだ上でこの設定を作ったのかどうかは知らないが、これは実に高度な発想なのである。
 人権は、まずは貴族の「特権」として発達した。「国王ですら、貴族のこれ等の権利だけは奪えない。」という特権制度が充実した後に、それ等が次第に大金持ちや大地主にも適用されるようになり、最後には全ての人間に適用されて「人権」になったのである。
 だからこそ、ツァーリ専制の下で貴族と庶民の間で権利の悪平等が成立していたロシアでは、人権思想が育ちにくかったのである。そしてこの事情に気付かない人が、ソ連が成立した時にもソ連が崩壊した時にも、「これでロシアの人権の状態は劇的に改善されるだろう。」と、無駄に喜んだのである。
 以前制限選挙を高く評価する記事(http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20081001/1222828368)を書いたのも、こうした理由があったからである。直接国税を15円以上納める連中だけが選挙権を得るという事態は、14円納めていた人にとっては、短期的には大損である。議会の経費だけ税金から奪われ、己には利する所がまるでない。しかしこの時に中・下層階級が参政権悪平等を守るための努力をして、しかもそれが実ってしまっていたなら、日本は議会を設立する機会を半永久的に失っていたかもしれないのである。
 そして多くの国において、男子のみの普通選挙が成立した瞬間は、男女間の平均的な権利の格差の大きさが頂点に達した瞬間だったかもしれない。だがこれを怖れた各国の女性が普選運動の足を引っ張っていたなら、婦人参政権が認められる時代の到来もまた、大いに遅れていたであろう。
 冷戦時代に西側に属した事もあって、日本人は、富の悪平等を目指す事の愚かしさについては、それなりに学習済みである。日本人は確かに、訒小平先富論を極普通の常識的な見解と見做せるという幸福を浴している。
 しかし人権意識については、日本にはまだ紅衛兵を思わせる悪平等論者が数多く残っている。
 例えば、稲垣吾郎氏が逮捕された時、マスコミ各社が氏を「稲垣容疑者」ではなく「稲垣メンバー」と呼称した事について、ネット上では怒りの声が多く見られた。「推定無罪の原則に従い、これからは市井の一般人が逮捕された場合でも呼称に配慮せよ!」という立場で怒っているのなら良いのだが、怒りの声の中には「稲垣が『稲垣容疑者』呼ばわりされないのが、悔しい、嫉ましい、羨ましい。」という立場の人の声が明らかに一定数混じっていた。
 マスコミから配慮して貰える名士の被疑者から先に配慮されて貰う事こそ、報道の際の被疑者の人権への配慮という慣習を確立する第一歩となるであろう。目先の悪平等の魅力に眼が眩んではならない。
 名士やその家族の側でも、下手に愚民に媚びて「お騒がせ」とやらを謝罪するのではなく、当然の権利を当然の如く享受している姿を見せつける事で、「市民」を育てて欲しいものである(参照→http://d.hatena.ne.jp/gureneko/20100811/1281532452)。
 そうした意味で、実刑判決が確定する最後の瞬間まで萎縮せずに国会議員を続けていた鈴木宗男氏の、推定無罪の原則を国民に教示した功績は、非常に高いと言える。
 刑期と公民権停止期間とを計算すると、鈴木氏は復活するとしても、その頃には若く見積もっても60代後半になっているだろう。だが訒小平とて最後に復活した時には既に70代だったのである。その後に、中国から富の悪平等を追放するという一大業績を成し遂げたのである。鈴木氏にも、日本から人権の悪平等を追放するために、更にもう一頑張りして欲しいと思う。

竜馬がゆく (新装版) 文庫 全8巻 完結セット (文春文庫)

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