「反戦責任」は、何故か追及されない。(1)

 昭和天皇の戦争責任を追及する勢力と、天皇は平和の為に尽力した人物であると主張して称える勢力は、それぞれ非常に有力である。
 二派は互いに激しく争っている様に見えるが、論争から一歩引いて考えてみると、両者は「平和主義は正しい。戦争を回避する努力をした人は偉い。」という価値観を自明の前提とした上で、そのコップの中で歴史上の一人物の評価を熱く論じているだけだとも言える。
 平和主義以外の立場からの昭和天皇論がほとんど存在しないのは、実に奇妙である。
 終戦玉音放送を「後ろからの一突き」呼ばわりする人は、流石にかなり少ないだろうが、開戦に関しては軍国主義大東亜戦争肯定論の立場からのそれなりに筋の通った昭和天皇批判が可能であると思われる。
 例えば、世の中には「大東亜戦争直前の日米の交渉は、アメリカの時間稼ぎに日本が騙されていただけのものだ。」と思っている人が数多くいる。もしもその見解が概ね正しいのならば、アメリカに騙された連中の無能さも批判すべきだと思う。
 「天皇が開戦に乗り気でなかったせいで、好機を逸してしまった。もう数ヶ月早く開戦していれば、我が方の石油の備蓄量は多く、アメリカの戦備も整っていなかった。大日本帝国国家元首が御人好しだったせいで滅んだ。」といった主張が、もっと聞こえてきても良いのではなかろうか?
 また、開戦の詔勅の「豈朕カ志ナラムヤ」の一句は、敗北時に敵国から厚遇される事を狙って掛けた保険とも解せる。欧米列強によるアジア支配を覆した聖戦の大義を尊重するならば、この様な無気力な発言は批判されてしかるべきである。開戦早々に士気を下げた責任を追及する声が聞こえてこないのは何故だろう?
 そしてまた、昭和天皇の平和への功績を称える声ばかり聞こえてきて、戦功を称える声がほとんど聞こえてこないのも不思議である。
 「日本の陸海軍は大変仲が悪かったが、天皇陛下が連絡役を務めて下さった御蔭で、被害があの程度で済んだ。有り難い限りである。」等の意見が、もっと在っても良いのではなかろうか?