植民地の正当化が切り開くもの

 昔、ある平和主義的な学者から、インド独立がもたらした民衆の辛酸を強調した研究を好意的に紹介され、一時的にがっかりした事がある。その時の私には、そうした研究は悪しき植民地主義を正当化するものとしか思えなかったのである。
 しかし、帰宅後に冷静に考えた末、本物の平和主義者なら、インドという国家の成立の栄光よりも、インド民衆一人一人の経験を重視するのがやはり正しいのだろうと思い直した。
 その後、個人でも色々と学び続けた末、民衆の視点から歴史を眺める手法が昨今の流行りである事を知った。そしてそれが、脱国家主義・脱民族主義の風潮と結びついている事も次第に判っていったのである。
 かつては、「先進国」のナショナリズムを悪とする者の多くも、途上国のナショナリズムには寛大であった。その頃のインド史はインドという国家なり大地なりの視点に立ち、その独立は無条件で正義であった。
 そして今、途上国のナショナリズムにもかなり厳しい視線が浴びせられ始めている。また前述した旧時代の思考法を保ち続けている者も、インド等の相当発展した国に対しては、先進国に準ずる審査基準を適用し始めている。
 こうした傾向が、時として非常に限定的な局面においては旧宗主国愛国主義植民地主義と共闘関係にあるのも事実ではあるが、やはり全体としては国家主義的発想そのものを破壊し続けている。

 例を日本に採ってみる。
 昨今、朝鮮半島に豊かさを与えたという理由から日韓併合を称える言説が有力である。そしてそうした研究成果を援用している人の中には、その活動が愛国的行為だと自認している人物が少なからずいる。
 しかし、かつての主権を重視する「大韓帝国の主権を奪ったから日韓併合は悪。」といった発想が、一方で「東南アジアに主権国家を作った大東亜戦争は正義。」という思考にもつながっていったのと同様に、「朝鮮半島の民衆を豊かにしたから日韓併合は善。」という発想もまた、「東南アジアの民衆に民族等という空虚な概念を与えた代償に欧米の経済圏から離脱させて貧困をもたらした大東亜戦争は悪。」という思考にもつながっていくであろう。
 それだけではない。彼等「愛国者」は、「民衆の幸福に比べれば主権なぞ些細なもの。」という発想も、自分で気付かない内に熱心に唱道してしまっている事になる。
 それが必ずしも失敗策であるとは言わないが、自己の言説の副作用を弁えておかなければ失敗する確率がそれだけ高まるであろう。またこれは当然ながら、この問題に関して彼等の対極を目指しているつもりの活動家にとっても当て嵌まる助言であると自負している。