制限選挙を次善の策として評価したいのだが・・・

 普通選挙は確かに素晴らしいと思うのだが、普選でなければ選挙でないという最近の風潮には、ちょっと問題があるのではないかと思う。
 独裁から普通選挙に至るまでの過渡期として制限選挙を高く評価する国際的風潮があれば、独裁国の指導者層も気軽に漸進的な民主化を断行出来るのではあるまいか?
 また、先進民主主義国からの理想主義的な高邁な要求が、北朝鮮の様な形式的な偽の普通選挙を生み出す一因なのではあるまいか?
 完全なる独裁国家や偽の民主主義国と、制限選挙でもいいからそれが確固として存在する国とでは、経済その他の条件が同じならどちらに住みたいだろうか?おそらく高邁な理想を掲げる民主主義者のほとんども、後者の方を選ぶだろう。
 中国を例に採ってみる。「まだ民衆が成熟していないから、もうしばらく独裁したい。」という政府の立場は理解出来なくもない。文化大革命の混乱やスポーツの国際試合での観客の態度を見るに、まだまだ普選は危険であるかもしれない。しかしまた同時に、特に経済発展や国際交流の盛んな地域等には視野の広い民衆が大勢いるのも事実である。政権の掲げるイデオロギー上、財産や納税額を基準にした制限選挙は無理だろうが、教育や試験による制限選挙なら充分断行出来る時期に来ていると思われる。惜しい事である。
 思えば日本は実に絶妙な時期に民選議院を開設したものだと思う。当時は貴族院があろうが制限選挙であろうが、「無いより余程良い。」という国内外からの賞賛が得られた。そしてその後、徐々に普選に向かって歩む事が出来たのである。これは日本史における一大幸運である。
「子曰 齊一變至於魯 魯一變至於道」(『論語』雍也篇より)