プレートテクトニクスとイデオロギー関連の覚書

 ルイセンコ論争というものが大昔にあった。ソビエト連邦で、遺伝学においてメンデルの業績を否定するルイセンコという人物が台頭し、メンデルの理論の系譜を継ぐ学者は軒並み弾圧された時期があった。そしてソビエトの科学こそが真の科学であるという思想を信じる西欧や日本の左派系の学者の中にも、ルイセンコの理論に呼応する者が多数出現したのである。
 日本では、プレートテクトニクス理論の受容においても、地学団体研究会に属する左派系の学者がこの理論を潰そうとしていた。この経緯は、泊次郎著『プレートテクトニクスの拒絶と受容―戦後日本の地球科学史』(東京大学出版会・2008)に詳しい。
 日本共産党は、ルイセンコ論争においては、強硬にソビエト発の疑似科学の側についたが、プレートテクトニクスの受容に関しては、割と柔軟な姿勢を見せたらしい。同書の242ページにも、「地団研プレートテクトニクスに批判的に対応したのに対し,日本共産党は1970年代に入ると,プレートテクトニクスには柔軟に対応した.なぜこのような見解の違いが生じたのかについても,未解明であることを断っておく.」とある。
 この「未解明」の謎については、私は漠然と以下の二つの原因のみを想像していた。まず第一に、ソビエトが以前ほど強硬ではなかった事。同書の46〜50ページではソビエトにおけるプレートテクトニクスの受容の歴史が描かれており、46ページには「少数ながら大陸移動説を支持する研究者も存在した.」とあった。第二に、日本共産党ソビエトの仲が、ルイセンコが活躍した時代と比較して、格段に悪くなっていた事。
 さて、本日私はある大学の構内で上演された劇を観に行った。翌日が入学試験だった事もあって、下見に来る受験生に対して民青同盟の人々が『マルクスは生きている』という不破哲三氏の講演録を配っていた。私は以前これを持っていた事もあったのだが、紛失してしまっていたので、この機会に彼等から再び一冊頂いた。なおこれは、不破哲三著『マルクスは生きている』(平凡社・2009)とは別物である。

 さてこの講演録の17ページでは、不破氏と日本のプレートテクトニクス研究の権威である上田誠也氏とが、「東大時代の自治会仲間」だった事が語られている。
 そして不破氏の書記局長就任は西暦1970年である。あるいはこの人脈と人事とが、1970年代に共産党プレートテクトニクスに柔軟な姿勢を示した事と関係しているのかもしれない。
 なお、この講演録を貰った後で観た劇に、親から外傷を受けた女性が産んだ子供に何故か生まれつき外傷があったというエピソードが登場していた。この劇の筋書きは何通りにも解釈出来るものであり、そういう妄想を持って子供を殺した女性の物語とも解釈出来るし、全ては語り手である警察署長が不祥事隠しのために作った嘘とも解釈出来るものであった。ともかく、私はこの劇の御蔭で獲得形質の遺伝の事を思い出し、よってルイセンコ論争の事を思い出し、よって日本におけるプレートテクトニクスの受容史を思い出していたからこそ、ペラペラとめくった共産党幹部の講演録の中の上田誠也氏の名前に敏感に反応出来たのである。偶然というものは恐ろしい。
 ところで私は、「共産党はルイセンコの肩を持ったのでけしからん!」とか「日教組のせいで日本の子供達はプレートテクトニクス理論をずっと学べなかったので、許せん!」とか怒っている人や文章はたまに見かけるのだが、日常的に共産党日教組を敵視している右派の論客や団体がこうした言動を行っているのを見た事はまだ一度も無い。
 この傾向が私の見聞が狭いが故の偶然ではないとしたら、これは「あまり科学科学とうるさく言うと、進化論を否定するアメリカの保守主義との連帯が難しくなるし、天孫降臨も否定しなければならなくなる。」と考えての高度な判断なのかもしれない。

プレートテクトニクスの拒絶と受容―戦後日本の地球科学史

プレートテクトニクスの拒絶と受容―戦後日本の地球科学史

マルクスは生きている (平凡社新書 461)

マルクスは生きている (平凡社新書 461)