『西遊記』には多様な妖怪が登場し、孫悟空はしばしば苦戦するのだが・・・

 この記事は元来は、唐沢俊一検証blogの2012年2月18日の記事(http://d.hatena.ne.jp/kensyouhan/20120218/1329570299)へのコメントとして準備されたものだが、長くなり過ぎたので、自分のブログに書くことにした。
 参考文献としては、2005年以降に改版として出版された、岩波文庫の『西遊記』全十巻を使用した。
 id:kensyouhan氏によると、『唐沢俊一キッチュの花園』(メデイアワークス・2001)という本には、「中国ファンタジーの代表と言えば何といっても『西遊記』だろうが、この中に三蔵法師を誘惑するマムシの女妖怪が登場する。金角銀角や牛魔王など他の妖怪は三蔵を捕らえて食べちまおうという食欲の妖怪だが、このマムシの女怪はひたすら三蔵を誘惑してセックスに及ぼうとする性欲の妖怪で、」とあるらしい。
 id:kensyouhan氏は、この妖怪の正体がマムシではなくサソリである事を喝破しているが、実は引用文には指摘すべき箇所がまだまだ多数ある。
 まず「他の妖怪」に性欲を目的として三蔵法師に近付いた者がいないかというと、実はいるのである。第六十四回では「杏仙」という木の妖怪が三蔵を誘惑する。
 続いて牛魔王は「三蔵を捕えて食べちまおうと」したのかというと、そんな事はないのである。牛魔王孫悟空が戦う動機は、第一には紅孩児の仇討ちであり、第二には孫悟空が自分の正妻や妾を誘惑しようとした可能性を猜疑した事にある。
 金角大王銀角大王については、確かに「三蔵を捕えて食べちまおうと」したのであるが、ではその動機が「食欲」だったかというと、これも誤りなのである。西遊記をある程度読んだ人にとっては常識中の常識なのだが、三蔵を食べると長寿を得られると思っている妖怪は、白骨夫人・紅孩児・鼉潔・霊感大王・独角兕大王・南山大王等、多数いる。金角大王銀角大王もその内の二人なのである。
 仮にこんな連中まで無理に「食欲の妖怪」に分類してしまうと、「性欲の妖怪」は更に増えてしまう。第八十回で登場する地湧夫人と第九十三回で登場する玉兎は、三蔵と性交する事で長寿を得ようとした妖怪である。
 長寿の話題を出さずに三蔵を食らおうとした、「食欲の妖怪」である可能性の高い連中も確かにいる。寅将軍・熊山君・特処士・黄風大王・黄袍怪・辟寒大王・辟暑大王・辟塵大王といった連中である。西遊記を通読するだけの気力の無い者が、この連中が登場する辺りだけを偶然読んでしまうと、西遊記の妖怪は食欲の妖怪ばかりだと思えてしまうのである。
 また「他の妖怪」の中には、食欲・性欲・長寿欲以外の理由で三蔵一行と対立した連中も多数いる。例えば、三蔵の袈裟を欲していた熊羆がいるし、宗教的名声を求めて三蔵の役目を奪おうとした六耳獼猴・黄眉老仏という面白い連中もいる。西遊記はしっかり読み込めば各種各様の妖怪と出会える作品なのである。
 前掲唐沢書には「さすがの孫悟空も苦戦して観音さまに助けを求めるが、この毒ばかりは観音菩薩も手の施しようがなく、ニワトリの化身の昴日星官という神様の助けを借りてやっとこれを退治する。」という部分もあるらしい。これは間違いではないものの、かなり不適切な記述である。
 雑魚はともかく、有力な妖怪が相手の場合は、孫悟空は「さすがの」という語が相応しい程の圧倒的強さを示す訳ではない。しばしば苦戦し、かなりの頻度で仏教・道教の有力者に助力を仰ぎに行く。そこで援軍として出てくる様々なゲストキャラもまた、西遊記を面白くしている要因なのである。その中で観音菩薩の助力だけを挙げても、第十七回の対熊羆戦・第四十二回の対紅孩児戦・第四十九話の対霊感大王戦と、何度も助けてもらっている。
 そしてこの牝の大サソリとの戦いでは、悟空が誰かに助力を頼みに行く前に、観音の方から先んじて一行の前に登場し、昴日星官を紹介してくれるのである。昴日星官は音による遠隔攻撃が出来るので、サソリの針も彼の前には無力である。引用文を読むと、観音がこの戦いではまるで役立たずだったかの様な印象を受けてしまうし、また昴日星官も突然登場した毒に強い神であるかの様な印象を受けるが、真相はこの通りなのである。

西遊記(10冊セット) (岩波文庫)

西遊記(10冊セット) (岩波文庫)

唐沢俊一のキッチュの花園

唐沢俊一のキッチュの花園