一部の所業を全体に拡大する形式の差別には、甘やかしが混じっている。

 「男はみんな狼(性犯罪者予備軍の隠喩)」という有名な言い回しを、「男性への甘やかし」だと主張している人を見掛けた事がある。
 性犯罪者予備軍呼ばわりされて喜ぶ者は少数派であろうし、この言い回しを真理だと思い込んだ者によって痛くも無い腹を探られたら多くの男性は不快であろう。こういった理由により、私はこの主張を原則として支持しない。
 しかし誤った主張が真理の一部を片言で表現しているというのは、しばしばある事である。私はこの主張にも、以下の理由から俗に言う「三分の理」があると考えている。
 ここに裁きを待つ一人の性犯罪者の男性がいたとする。こういう人物に「男はみんな狼」と吹き込めば、彼の罪悪感は弱まるだろう。
 そして「これはもう世間の常識です。」と教え込めば、彼は「男はみんな狼」を自己弁護の材料にし始めるだろう。例えば、「あー、エヘン、私は確かに犯罪を犯しましたが、それは遺伝子の要求に従っただけなのであります。男はみんな狼なのです。そして狼ではないくせに私と同じ犯罪を犯した、あの許し難い憎むべき変態女性の刑期と、この私の刑期が同じというのは、悪平等の極みではありませんか?」といった具合にである。
 更に彼の信仰を強めてやれば、ついには狼でない男性を差別し始めるだろう。「男はみんな狼であるのに、自然の摂理に反して性犯罪を犯さない変態がいるのは残念な事だ。きっと遺伝子に何らかの欠陥があるのだろう。」と。
 このように、「Aに属する者の全て(又は多数派)は、Bである!」と決め付ける形式の差別発言は、AだがBでない人に対しては不当な差別であるとともに、本当にAかつBである人にとっては甘やかしとして機能するのである。